高徳院

長谷 · JP

青空の下で750年坐し続ける、国宝・露坐の鎌倉大仏に逢いに行く

神奈川県鎌倉市長谷の浄土宗・大異山高徳院清浄泉寺は、像高約11.4メートル・重量約121トンの国宝青銅製阿弥陀如来坐像「鎌倉大仏」を本尊とする寺院。1252年の鋳造開始以来、大仏殿を失っても造立当初の姿をほぼとどめる稀有な存在である。

国宝

ベストシーズン・ベストタイム

3月下旬-4月上旬

境内と参道の桜が青銅の黒と対比して映える、年で最も写真映えする最盛期

★★★★★

6月-8月

アジサイ咲く長谷寺と組合せ可能、午前早朝なら炎天と混雑を回避できる

★★★☆☆

11月中旬-12月上旬

境内の銀杏と紅葉が大仏背後で色づき、空気の澄んだ晴天日が撮影に最適

★★★★★

1月-2月

観光客が減り胎内拝観も並ばず入れる穴場期、晴天時の青空との対比が美しい

★★★★☆

見どころ TOP 3

  • 1.国宝・露坐の青銅大仏

    1252年に鋳造が始まった像高11.39メートルの阿弥陀如来坐像。膝の上で定印を結ぶ姿は宋風仏像の典型で、鎌倉時代を代表する仏教彫刻として国宝に指定される。後補の少ない造立当初の姿を保つ点でも貴重である。

    境内中央の参拝位置から正面、午前の順光が金色の右頬残痕を映える

  • 2.胎内拝観で見る鋳造の継ぎ目

    大仏は内部が空洞で、20円の追加で胎内に入れる。背中の窓から差し込む光に照らされて、体部7段・頭部前面5段の継ぎ目や1959年の補強跡が間近に観察でき、巨大鋳造像の構造を体感できる希少な体験となる。

    背面の拝観入口を構図に入れ、開口部からの斜光で立体感を強調

  • 3.明治期から変わらぬ露坐の景観

    1498年の津波で大仏殿が流失して以来、500年以上にわたり露坐の姿で立ち続けてきた。1885年の古写真と現在の景観を見比べると、台座の沈下修復や免震化を経てもなお同じ姿勢で参拝者を迎え続ける時の連続性に圧倒される。

    南側仁王門寄りの斜め正面から、背後の山林を取り込んだ俯瞰風構図

物語・伝説

1243年、僧・浄光が全国を勧進して集めた資金で木造大仏と大仏堂が完成した。しかし暴風で堂宇は損壊し、1252年から銅造大仏の鋳造が始まる。河内の鋳物師・丹治久友らが体部7段・頭部前後で分けて鋳継ぐ難工事を成し遂げ、奈良東大寺大仏に倣う阿弥陀如来として完成した。やがて1495年(または1498年)の津波で大仏殿が流失。江戸中期に祐天上人と浅草の商人・野島新左衛門の喜捨で復興され、1923年の関東大震災で基壇が1メートル沈下するも翌年に修復。戦災にも空襲にも耐え、露坐のまま今も鎌倉の象徴として参拝者を迎える。

こんな人におすすめ

鎌倉時代の仏教美術を間近で味わいたい歴史・美術愛好家、巨大鋳造像の継ぎ目を観察したい建築・工芸ファン、東京から日帰り可能な国宝参拝を求めるファミリー層、長谷寺や鶴岡八幡宮と組み合わせて鎌倉文化圏を半日で巡りたい旅行者に最適。

現地で知るべき豆知識

  • 1.胎内拝観は別途20円で、9時開門直後か15時以降が最も空く。一度に30人までの入場制限があるため、団体ツアーが入ると待ち時間が発生するので個人客は午前9時台か夕方を狙うとよい。
  • 2.境内奥の与謝野晶子歌碑「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におはす」を必見。大仏を「美男」と詠んだ大胆な歌で、台座近くの石碑に刻まれており、SNS映えするひと味違う撮影スポットになる。
  • 3.大仏の右頬には金箔の跡が今も残る。造立当初は全身に金箔が貼られていた証拠で、午前の順光時に右側に回り込むと薄く残る金色が肉眼でも確認できる。観光客の多くが見落とす隠れ見どころである。

訪問情報

アクセス
江ノ電「長谷駅」から徒歩約7分、または鎌倉駅東口から京急バス大仏前・藤沢駅行きで「大仏前」下車徒歩すぐ。東京駅からはJR横須賀線で鎌倉駅まで約60分。
所要時間
境内拝観と胎内拝観で約45分-1時間、写真撮影含めて約1時間半
予算目安
拝観料300円+胎内拝観20円+江ノ電鎌倉-長谷往復約400円。長谷寺と合わせて半日で約1500円程度(2024年時点の参考額、最新は公式サイトで確認)

周辺観光

徒歩約7分の長谷寺は、十一面観音と紫陽花の名所として鎌倉観光の定番。江ノ電で2駅(約4分)の鎌倉駅周辺には鶴岡八幡宮や小町通り、北鎌倉方面には円覚寺・建長寺の禅宗寺院群があり、大仏参拝と合わせて鎌倉文化を半日-1日で堪能できる。

詳しく知る

時間のある方向けの詳細情報。

年表

  1. 1238年

    木造大仏堂の造立開始

    『吾妻鏡』暦仁元年の条に、僧・浄光の勧進により深沢の地で大仏堂の造立が始まったと記される。

  2. 1243年

    木造大仏の開眼供養

    寛元元年に最初の大仏(木造)の開眼供養が行われた。仁治3年(1242年)に訪れた『東関紀行』筆者は当時の進捗を木造と記している。

  3. 1252年

    青銅大仏の鋳造開始

    『吾妻鏡』建長4年の条に深沢里で金銅像の造立が始まったと記載。これが現存する青銅製阿弥陀如来坐像の鋳造開始と考えられる。

  4. 1335年

    建武の暴風で大仏殿倒壊

    『太平記』に建武2年の強風で大仏殿が倒壊したとの記載があり、当時の大仏殿が損傷した。

  5. 1369年

    応安の大仏殿倒壊

    『鎌倉大日記』によれば応安2年に再び大仏殿が倒壊。発掘調査では、これ以後に大仏殿が再建された形跡は確認されていない。

  6. 1486年

    露坐の確認

    禅僧・万里集九が『梅花無尽蔵』に文明18年訪問時の大仏を「無堂宇而露坐(堂宇なくして露座する)」と記し、この時点で露坐であった事実が確認される。

  7. 1495-1498年

    津波で大仏殿失う

    明応年間の地震津波で大仏殿(再建分含む)が失われた。以後、大仏は青空のもとに坐し続ける露坐の姿となった。

  8. 1711-1716年

    祐天上人の中興

    正徳年間に増上寺の祐天上人が浅草の商人・野島新左衛門の喜捨で大仏鋳掛修復と寺院再興を成し遂げ、「清浄泉寺高徳院」と称する浄土宗寺院として復興した。

  9. 1923年

    関東大震災で基壇沈下

    9月1日の関東大震災で台座基壇が1メートル沈下。翌1924年に建築学者・内田祥三と帝室技芸員・新海竹太郎の指揮で修復が実施された。

  10. 1959-1961年

    昭和大修理と耐震補強

    基壇を免震化し、頭部内面の試料分析で組成(銅68.7%/鉛19.6%/錫9.3%)を確認。ジャッキ23台で持ち上げて重量121トンが実測された。

  11. 2004年

    国の史跡指定

    2月27日に境内一帯が「鎌倉大仏殿跡」として国の史跡に指定。発掘調査で53個の礎石跡や創建期の屋瓦が確認されている。

  12. 2016年

    平成の保存修理

    1月から3月まで洗浄・異物除去・X線調査を実施。3月11日に胎内含め拝観再開。胎内に貼られたガムや落書きの修復も行われた。

歴史をもっと深く

高徳院の起源は不詳で、開山・開基ともに伝わらない。『吾妻鏡』暦仁元年(1238年)の条には、僧・浄光の勧進により深沢の地(現在の大仏所在地)で「大仏堂」の造立が始まったと記される。寛元元年(1243年)に開眼供養が行われた最初の大仏は木造で、仁治3年(1242年)に鎌倉を訪れた『東関紀行』の筆者が大仏殿と大仏が3分の2ほど完成し木造であったと記している。建長4年(1252年)から『吾妻鏡』が記す「深沢里」での金銅釈迦如来像造立が、現存する青銅製阿弥陀如来坐像の鋳造開始とされ、当初の木造大仏は新像の原型もしくは前身像として失われたという説が定説となっている。鋳造には河内の鋳物師・丹治久友が関わったことが、文永元年(1264年)に久友が鋳造した大和吉野山蔵王堂の鐘銘や、同年の東大寺真言院鐘銘の「鋳物師新大仏寺大工」の記述から判明する。当初は真言宗、のちに臨済宗建長寺末寺となり、江戸時代の正徳年間(1711年-1716年)に増上寺の祐天上人による再興以降は浄土宗、材木座光明寺の末寺(関東十八檀林筆頭の奥之院)に位置づけられた。大仏殿は建武2年(1335年)の暴風と応安2年(1369年)の倒壊で再建されたが、その後の地震・津波で失われた。津波の年については、『鎌倉大日記』が明応4年(1495年)とし、別史料からは明応7年(1498年)の明応地震とする説もあったが、2010年代の研究で別個の地震の存在が確認された。文明18年(1486年)に万里集九が大仏を「無堂宇而露坐」と記したことから、応安2年の倒壊以後に大仏殿が再建されなかった可能性が高い。1923年(大正12年)の関東大震災で基壇が壊れて1メートル沈下したが、翌年に建築学者・内田祥三を顧問に修復、仏身は帝室技芸員・新海竹太郎の指揮で復元された。1959年から1961年の昭和大修理では基壇を免震化し、頭部の鉛比率の高さ(平均で銅68.7%・鉛19.6%・錫9.3%)を電子線分析で確認、宋から輸入した中国銭が原料に使われた可能性が示された。2016年と2017年には再度保存修理が実施されている。2004年(平成16年)2月27日には境内一帯が「鎌倉大仏殿跡」として国の史跡に指定された。

文化的背景と意義

鎌倉大仏(銅造阿弥陀如来坐像)は鎌倉時代を代表する仏教彫刻として国宝に指定され、後世の補修が甚大な奈良東大寺大仏と並ぶ日本三大仏のひとつとして江戸時代から知られた(江戸期の三大仏は東大寺・鎌倉・方広寺大仏)。鎌倉時代に流行した「宋風」の角張った平面的な面相、低い肉髻、猫背気味の姿勢、頭部が体部より大きい釣り合いは、宋からの仏画・仏像様式の影響を直接受けたものとされ、日本における宋風彫刻の到達点と位置づけられる。境内一帯は「鎌倉大仏殿跡」として国指定史跡となり、2000年-2001年の発掘調査で53個の礎石跡や創建期の屋瓦が確認されている。高徳院は鎌倉市が推進する「武家の古都・鎌倉」世界遺産登録運動の構成資産22件のひとつにも含まれていた(2013年の推薦取下げ後、再申請に向けた見直しが続く)。文学的影響も大きく、ラドヤード・キップリングが1892年の訪問を経て1903年の詩集『五つの国(The Five Nations)』に収めた詩「鎌倉の仏陀」は、小説『キム』(1901年)冒頭にも引用されて世界に鎌倉大仏の名を広めた。境内の与謝野晶子歌碑「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におはす」も近代日本短歌における大仏文化の象徴として知られる。

建築的詳細

鎌倉大仏は像高約11.39メートル(台座を含めると13.35メートル)、面長2.35メートル、眼長1メートル、口広0.82メートル、耳長1.9メートル、膝幅約9.1メートル、重量約121トンの青銅製坐像。1959年-1961年の耐震補強工事の際にジャッキ23台で大仏を55センチ持ち上げ、その下に秤を入れて2度計量した数値の平均が121トンと確定した。金属組成は銅68.7%、鉛19.6%、錫9.3%(平均値)で、通常の青銅より鉛比率が高く、宋から輸入した中国銭の再利用が原料推定の根拠となっている。鉛が多いと鍍金が困難なため、造立当初は全身に金箔貼り(漆下地)を行ったとされ、現在も右頬に薄く金箔の跡が残る。鋳造は体部が7段、頭部は前面5段・背面6段に分けて鋳継ぐ「鋳継ぎ」技法で、像内外に残る痕跡から段数が確認できる。両肩を覆う通肩(つうけん)に衣をまとい、膝上で両手を組む定印(じょういん)を結ぶ姿は、真言ないし天台系の阿弥陀信仰に基づく特徴で、来迎印を結ぶ浄土教系阿弥陀像とは異なる。像内は空洞で30人まで胎内拝観でき、首部のくびれには1959年補強時に塗布された繊維強化プラスチック(FRP)による補強跡が確認できる。台座周囲には、かつて大仏殿の柱を支えた礎石とみられる巨大な石が現在も53個残されている。

外部リンク

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