慈照寺
左京区 · JP
侘び寂びの結晶、 東山文化が遺した世界遺産の禅寺と国宝の銀閣
京都市左京区東山の麓に佇む慈照寺(銀閣寺)は、 8代将軍足利義政が東山山荘として築き禅寺に改めた臨済宗相国寺派の名刹。 観音殿「銀閣」と東求堂は国宝、 銀沙灘と向月台を擁する庭園は特別史跡・特別名勝、 古都京都の文化財として世界遺産にも登録される東山文化の到達点。
ベストシーズン・ベストタイム
山桜と新緑が混じる東山の麓、 哲学の道と組合せた京都春の王道散策路として人気
★★★★☆
緑深い苔と杉木立に包まれ、 雨上がりの銀沙灘の質感は写真愛好家にとって至宝
★★★☆☆
境内の楓と展望所から見下ろす紅葉と京都市街の眺望が圧巻、 銀閣寺最高の季節
★★★★★
雪化粧した銀閣と銀沙灘の白の対比、 観光客が最も少なく静寂を独り占めできる
★★★★☆
見どころ TOP 3
1.銀沙灘と向月台が描く月光の庭園
白砂を波状に盛り上げた銀沙灘と、 富士山型の円錐砂山「向月台」が観音殿の前に静かに広がる。 月光を反射して座敷を照らす装置とも、 中国西湖を象るとも言われる謎多き造形で、 京都の他寺院では見られない唯一無二の禅庭美である。
観音殿側から向月台越しに本堂方向を朝の斜光で
2.国宝東求堂と書院造の原点「同仁斎」
文明18年(1486年)築の東求堂は義政の持仏堂で、 北東隅の四畳半「同仁斎」は床と棚を備え書院造の原型と評価される。 後の茶室・和室建築の出発点であり、 ミニマルな日本住居空間の源流に直接立ち会える希少な国宝建築である。
銀沙灘越しに東求堂を撮ると国宝2棟と特別名勝庭園が一画に
3.国宝観音殿(銀閣)の侘びの楼閣
長享3年(1489年)上棟の二層楼閣は、 金箔を貼った祖父義満の金閣と対をなすが銀箔は貼られず、 黒漆と木地の風合いだけが残る未完成の美。 宝形造杮葺の屋根に銅製鳳凰が立ち、 上層「潮音閣」の禅宗様花頭窓が古雅な趣を伝える。
錦鏡池の対岸から東向きの正面を切り取るのが定番
物語・伝説
こんな人におすすめ
現地で知るべき豆知識
- 1.総門から続く50メートルの椿垣と石垣道は、 開門直後の8:30に通ると人が少なく『侘びの参道』の真価を体感できる。 帰路にも同じ道を歩くので、 往路は写真用に通り抜けるのが上手な使い方になる
- 2.展望所の高台からは京都市街と遠く西山連峰を一望できるが、 観光客の8割が見落とす穴場。 銀閣・銀沙灘・向月台を真上から構図に収める唯一のポイントで、 紅葉期は特に絶景
- 3.東求堂と方丈は通常非公開だが、 春と秋の年2回(3月下旬-5月上旬と10月-12月初旬目安)に特別公開される。 書院造原点の同仁斎を間近で見られる稀少機会で、 公式サイトで日程を必ず確認したい
訪問情報
- アクセス
- JR京都駅から市バス5系統または17系統で約40分の銀閣寺道下車、 徒歩10分。 京阪電鉄出町柳駅からはバスで15分または徒歩30分。 哲学の道の北端でもあり、 南禅寺・永観堂方面からの徒歩アクセスも可能。
- 所要時間
- 境内一巡で1時間、 哲学の道散策と合わせて半日が目安。
- 予算目安
- 拝観料 大人500円・小中学生300円。 哲学の道徒歩無料、 周辺の永観堂・南禅寺等は別途各600-1000円。 (2024年時点、 最新は公式サイトで確認)
周辺観光
南へ哲学の道を約2キロメートル辿れば法然院・安楽寺・大豊神社が連なり、 さらに南端で永観堂禅林寺・南禅寺水路閣・無鄰菴へと続く東山禅文化の散策路が組める。 北側には吉田神社と京都大学吉田キャンパス、 西へバス30分で世界遺産仁和寺・龍安寺・金閣寺が一日で結べる。
詳しく知る
時間のある方向けの詳細情報。
年表
- 1465年
山荘構想開始
足利義政が南禅寺子院恵雲院跡地に山荘造営を構想、 応仁の乱を経て造営地は東山に変更される
- 1473年
将軍職譲位
義政が8代将軍職を子の義尚に譲り、 隠居後の山荘造営に向けて準備を本格化させる
- 1482年
東山殿造営開始
応仁の乱後の経済疲弊の中、 義政が東山月待山の麓で東山山荘の本格造営に着手
- 1486年
東求堂建立
義政の持仏堂として東求堂が建立、 北東隅の同仁斎は書院造の原点となり国宝指定される
- 1489年
観音殿(銀閣)上棟
長享3年3月に観音殿の立柱上棟、 同年10月に義政は病に倒れ完成を見ることなく翌年没
- 1490年
義政死去・禅寺へ
延徳2年1月に義政が没し、 遺言により東山殿は夢窓疎石を勧請開山として相国寺末寺の禅寺へ改められる
- 1491年
慈照寺と改称
当初の寺号「慈照院」が翌年「慈照寺」に改められ、 義政の院号慈照院殿に因む正式名称が確定
- 1550年
中尾城の戦いで焼失
12代将軍足利義晴・義輝父子が裏山に中尾城を築き三好長慶軍と合戦、 銀閣と東求堂を残し全焼
- 1615年
宮城豊盛の大改修
江戸初期に宮城豊盛が大改修を実施し、 再び相国寺末寺として再興、 現存伽藍の骨格が整う
- 1658年
銀閣寺の名称定着
万治元年刊『洛陽名所集』に初めて「銀閣寺」の名が登場、 江戸期を通じ庶民の名所として定着する
- 1952年
特別史跡・特別名勝指定
3月29日に庭園が国の特別史跡および特別名勝に指定、 文化財保護の中核に位置づけられる
- 1994年12月
世界遺産登録
12月17日に「古都京都の文化財」構成資産としてユネスコ世界文化遺産に登録される
- 2008-2010年
平成の大修理
大正初期以来の大規模修復、 銀閣の杮葺屋根葺替と上層内部黒漆塗を約1億4000万円で実施
歴史をもっと深く
慈照寺の歴史は寛正6年(1465年)、 足利義政が南禅寺子院の恵雲院跡地に山荘造営を構想したことに始まる。 文明5年(1473年)に8代将軍職を子の義尚に譲った義政は、 応仁の乱(1467-1477)を経て造営計画を東山月待山の麓に変更し、 文明14年(1482年)から東山山荘(東山殿)の本格造営に着手した。 この地は応仁の乱で焼失した平安期創建の浄土寺の旧地であり、 また義政の養子だった義視がかつて義尋という僧名で住していた寺でもあった。 京都の経済が疲弊する中、 義政は土岐成頼・赤松政則・山名政豊・朝倉氏景ら諸守護大名からの献金を取り付け、 朝倉氏は三千人を上京させて造営に協力した記録が残る。 寺社からは庭石・庭木が供出され、 庶民には段銭(臨時税)と夫役(労役)が課されたが、 義政自身は書画・茶の湯に親しむ風流な隠棲生活を送り、 山荘は西芳寺(苔寺)を手本としつつ祖父義満の北山殿(後の鹿苑寺)の対をなす意匠で構想された。 文明15年(1483年)に常御所が完成すると義政は政務を義尚に譲ってここに移り住み、 文明17年(1485年)に西指庵で出家して喜山道慶を称した。 翌文明18年(1486年)に自身の持仏堂として東求堂(国宝)が建立され、 長享元年(1487年)に会所・泉殿(弄清亭)が完成、 長享3年(1489年)3月には観音殿(銀閣、 国宝)の立柱上棟が行われた。 しかし同年10月に義政は病に倒れ、 延徳2年(1490年)1月7日に山荘の完成を見ずに没した。 義政の遺言によって東山殿は禅寺に改められ、 夢窓疎石を勧請開山として相国寺の末寺に編入され、 寺号は義政の院号「慈照院殿」にちなみ当初「慈照院」、 翌延徳3年(1491年)に「慈照寺」と改められた。 戦国時代の天文19年(1550年)には12代将軍足利義晴と13代義輝が裏山に中尾城を築き、 三好長慶軍との戦火で銀閣と東求堂を残して全焼。 戦国末期には関白近衛前久の別荘となり、 江戸初期の慶長20年(1615年)に宮城豊盛による大改修で再び相国寺末寺として再興された。 万治元年(1658年)刊『洛陽名所集』に初めて「銀閣寺」の名が現れ、 江戸期を通じて庶民の名所として定着した。 1952年(昭和27年)3月29日に庭園が国の特別史跡および特別名勝に指定され、 1994年(平成6年)12月17日に「古都京都の文化財」の構成資産として世界遺産登録、 2008年2月から2010年3月までは大正初期以来の大規模修復が約1億4000万円で実施された。
文化的背景と意義
慈照寺は、 足利義政が東山殿に集約させた文化総合体「東山文化」の到達点を空間として現代に伝える稀有な遺産である。 東求堂北東隅の四畳半「同仁斎」は床・棚・付書院を備えた最古級の書院造で、 後の茶室・和室建築すべての出発点とされ、 千利休の侘茶も小堀遠州の数寄屋造もここから始まったと言って過言ではない。 観音殿の二層構成は祖父義満の金閣と対をなす中世日本楼閣建築の双璧であり、 金閣と飛雲閣(西本願寺)とあわせて「京の三閣」と称される。 「銀閣に銀箔は貼られなかった」事実は2007年の科学調査で確定し、 未完成のまま終わった姿そのものが「侘び寂び」という日本独自の美意識の象徴として国際的に参照され続けている。 国宝指定建造物は観音殿と東求堂の2棟、 庭園は特別史跡および特別名勝(1952年指定)、 1994年12月17日の「古都京都の文化財」世界遺産登録では清水寺・金閣寺・龍安寺ら17構成資産の一つとして名を連ね、 ユネスコは禅宗美意識を体現する遺産群と評価した。 川端康成『古都』をはじめ多くの文学作品の舞台となり、 谷崎潤一郎『陰翳礼讃』が論じた日本的美の典型例として影響を与え続けている。
建築的詳細
観音殿(銀閣)は長享3年(1489年)上棟の木造2階建て楼閣で、 屋根は宝形造・杮葺、 屋頂には銅製鳳凰を頂く(18世紀後半までは宝珠)。 初層「心空殿」は住宅風造で、 東面に落縁を設け軒は二軒、 内部は4畳の広縁・8畳の仏間・6畳の和室・3畳大の小室を組合せ吹き寄せ格天井を用いる。 平面規模は東西8.2メートル、 北面7.0メートル、 南面5.9メートルの不整形(西面北寄りの勝手口突出による)。 上層「潮音閣」は禅宗様の仏堂風で柱間東西南北各3間の正方形平面、 内部は仕切りなしの1室で観音菩薩坐像を東向きに安置し、 四周に縁と高欄をめぐらす。 南北のみに桟唐戸、 東西は花頭窓のみとする変則形式で、 縁の高欄は和様の刎高欄。 創建当初は内外とも黒漆塗で軒下に彩色装飾があったことが調査で判明、 銀箔は当初から一切使われていなかった。 東求堂は一重入母屋造・檜皮葺の正方形平面(三間半四方、 各面6.9メートル)、 内部4室構成で南が正面、 奥東「同仁斎」4畳半の書斎は床・違棚・付書院を備える書院造の原点である。 庭園は錦鏡池を中心とした池泉回遊式で、 銀沙灘と高さ約180センチの円錐形向月台が観音殿前に配される。