熊本城
中央区 · JP
加藤清正の武者返しが守り抜く、 日本三名城に数えられる銀杏の城
熊本県熊本市の茶臼山丘陵に立つ熊本城は、 名築城家・加藤清正が7年かけて築き上げた壮大な平山城。 西南戦争で天守を失い、 2016年熊本地震で甚大な被害を受けながらも、 復旧工事と共に再び勇姿を取り戻しつつある不屈の城である。
ベストシーズン・ベストタイム
ソメイヨシノ約800本と復旧大天守のコラボ、 日本さくら名所100選に選ばれた絶景の旬
★★★★★
新緑と城内の銀杏が映える季節、 夕方ライトアップ(日没-23時)が幻想的で人気
★★★☆☆
別名「銀杏城」由来の大銀杏の黄葉と紅葉、 桜期より人が少なく落ち着いて見学できる穴場
★★★★★
雪化粧した黒い天守は対比美の絶景、 寒さ覚悟の写真愛好家に静かに人気
★★★☆☆
見どころ TOP 3
1.復旧した大天守の威容
30.3メートルの大天守は1960年に鉄筋コンクリートで外観復元され、 2016年地震で被災後2021年春に内部公開を再開。 黒漆の下見板と白漆喰の対比が清正流築城美を伝え、 最上階展望所からは熊本市街と阿蘇外輪山の大パノラマを一望できる。
二の丸広場の東側からの正面ショットが大小天守を同時に収める定番
2.武者返しの石垣の優美な曲線
下部はゆるやかで上部にいくほど反り返る独特の石垣は「武者返し」「清正流石垣」と呼ばれ、 西南戦争で西郷軍を寄せつけなかった鉄壁の防御を生んだ。 切込接ぎ・打込接ぎ・野面積みの石組技法が時代別に観察できる築城史の生きた教科書である。
頬当御門から不開門にかけての石垣群を低めの構図で
3.2016年熊本地震の被害と復旧の記録
M7.3本震で大小天守の屋根瓦・鯱が落下し、 多くの石垣が崩落、 飯田丸五階櫓は石垣の一本足で支えられ「奇跡の一本石垣」として全国に報道された。 復旧途中の様子は特別見学通路から間近に観察でき、 文化財修復の貴重な現場を体感できる。
特別見学通路の高架から崩落石垣と修復現場を俯瞰で
物語・伝説
こんな人におすすめ
現地で知るべき豆知識
- 1.2020年に整備された「特別見学通路」(高架歩道)を歩くと、 復旧途中の石垣と櫓を間近から見下ろせる。 文化財修復の現場をリアルに体感できる全国でも極めて珍しい観光体験スポットである
- 2.城彩苑(じょうさいえん)は城の南西麓にある観光複合施設で、 熊本郷土料理(辛子蓮根・馬刺し・いきなり団子)とお土産が揃う。 入城前の腹ごしらえと帰路の土産購入に最適である
- 3.復興のため2018年から「復興城主」制度がスタート、 1万円以上の寄付で芳名板に名前が刻まれ、 城主証と城主手形(無料優待券)が付与される。 旅の記念に城主になれる全国唯一の機会である
訪問情報
- アクセス
- JR熊本駅から市電で約17分、 「熊本城・市役所前」電停下車徒歩10分。 熊本空港から空港リムジンバスで約1時間。 福岡から九州新幹線で約45分。
- 所要時間
- 天守と本丸御殿で2時間、 特別見学通路と城彩苑含めて半日が目安。
- 予算目安
- 入園料 大人800円・中高生300円・小学生以下無料。 市電1日券500円併用が便利。 (2024年時点)
周辺観光
南西麓の城彩苑は熊本郷土料理と土産物の複合施設で組合せ可。 徒歩15分の水前寺成趣園は細川家の池泉回遊式庭園で東海道五十三次を模した名園。 車1時間の阿蘇山(世界最大級カルデラ)と組合せれば1日コース。
詳しく知る
時間のある方向けの詳細情報。
年表
- 1467年
千葉城築城
肥後守護菊池氏一族の出田秀信が茶臼山に小規模な砦・千葉城を築き、 熊本城の歴史が始まる
- 1588年
加藤清正の入城
豊臣秀吉から肥後北半国19万5000石を与えられ、 加藤清正が隈本城に入城して城代となる
- 1591年
築城開始
清正は朝鮮出兵での蔚山籠城戦の経験を活かし、 茶臼山に近世城郭の本格築城を開始する
- 1607年
城の完成
築城を始めて16年、 城が完成して翌年「隈本」を「熊本」と改名、 現在の名の始まりとなる
- 1632年
細川氏の入城
加藤清正の子忠広が改易され、 細川忠利が肥後54万石の領主として入城、 以後幕末まで細川家の居城に
- 1877年2月
西南戦争籠城戦
政府軍4000人が西郷軍14000人を52日間撃退、 西郷が「清正公に負けた」と嘆いた逸話で有名
- 1877年2月19日
天守焼失
西郷軍総攻撃2日前の原因不明の出火で大小天守・本丸御殿・主要櫓を焼失、 戦災の悲劇となる
- 1933年
重要文化財指定
宇土櫓をはじめ現存13棟が旧国宝(現行重要文化財)に指定され、 文化財保護の対象となる
- 1955年
特別史跡指定
「熊本城跡」として国の特別史跡に指定、 城跡全体が文化財保護の最高ランクに位置づけられる
- 1960年
天守外観復元
鉄筋コンクリート造で大小天守の外観復元工事が完成、 戦後復興の象徴事業となった
- 2008年
本丸御殿復元
築城400年を機に本丸御殿大広間が木造で復元され、 江戸期の壮麗な建築美が蘇る
- 2016年4月
熊本地震被害
M7.3の本震で大小天守の瓦・鯱が落下、 多くの石垣が崩落、 飯田丸五階櫓は石垣の一本足で支えられる事態に
- 2021年4月
大天守復旧公開
震災から5年、 大天守の復旧が完了し内部公開を再開、 市民と全国の希望の象徴となる
- 2052年(予定)
全体復旧完了予定
当初2037年完了予定の復旧計画は2022年に2052年へ延長、 文化財修復は世紀をまたぐ大事業に
歴史をもっと深く
熊本城の歴史は1467年(室町時代応仁元年)、 肥後守護菊池氏一族の出田秀信が茶臼山に千葉城を築いたことに始まる。 1496年(明応5年)には鹿子木親員が隈本城を築き、 16世紀には大友氏・島津氏の支配を経て1588年(天正16年)に加藤清正が肥後北半国19万5000石の領主として入城した。 朝鮮出兵に従軍した清正は、 蔚山城籠城戦の苦い体験を踏まえ、 1591年(天正19年)から千葉城・隈本城のあった茶臼山丘陵一帯に近世城郭の築城を開始した。 1600年(慶長5年)頃に天守が完成し、 同年の関ヶ原の戦いで東軍に属した功で肥後一国52万石の領主となる。 1607年(慶長12年)に城が完成し、 翌年「隈本」を「熊本」と改めた。 籠城に備えて城内に120の井戸を掘り、 畳床にズイキ芋を植え、 壁の下地にはかんぴょうを使うなど徹底した実戦設計が施されたと伝わる。 1632年(寛永9年)、 清正の子加藤忠広が改易され、 細川忠利が肥後54万石の領主となり以後幕末まで細川家の居城となった。 1871年(明治4年)の廃藩置県後は熊本鎮台が置かれ、 1877年(明治10年)2月の西南戦争では政府軍の重要拠点となる。 西郷軍総攻撃2日前の2月19日、 原因不明の出火で大小天守・本丸御殿・主要櫓を焼失したが、 司令官谷干城率いる4000人の籠城は西郷軍14000人の攻撃を52日間耐え抜き撃退に成功した。 西郷隆盛が「清正公に負けたとでごわす」と嘆いた逸話はあまりにも有名である。 1933年(昭和8年)に宇土櫓など現存13棟が旧国宝(現行重要文化財)に指定、 1955年(昭和30年)には「熊本城跡」として国の特別史跡に指定された。 1960年(昭和35年)に天守が鉄筋コンクリート造で外観復元され、 2003年(平成15年)から本丸御殿大広間など木造復元事業が進められた。 2016年(平成28年)4月14日と16日の熊本地震本震(M7.3)で甚大な被害を受け、 大小天守の屋根瓦・鯱の落下、 多くの石垣崩落、 飯田丸五階櫓が石垣の一本足で支えられる事態となった。 復旧工事は2016年6月から開始され、 2021年に大天守の復旧が完了し内部公開を再開、 全体復旧は当初2037年完了予定が2022年に2052年へと延長された。
文化的背景と意義
熊本城は加藤清正の築城技法の集大成として、 姫路城・松本城(または名古屋城・大阪城)と並んで「日本三名城」の一つに数えられる。 城内13棟(宇土櫓・監物櫓ほか櫓11棟、 不開門、 長塀)が国の重要文化財、 城跡全体は国の特別史跡に指定された希少な構成である。 「銀杏城」の異称は、 加藤清正が朝鮮出兵時の籠城に備えて植えたと伝わる本丸の大銀杏(初代は1877年西南戦争で焼失、 現在は2代目)に由来する。 籠城時の食料として銀杏を選んだ清正の周到な設計思想を象徴する逸話である。 1877年の西南戦争では4000の政府軍が14000の西郷軍を52日間撃退し、 西郷隆盛が城の堅固さに敗北を認めた逸話は近代日本史の重要な一場面となった。 2016年の熊本地震被害は文化財修復の国家的事業となり、 全国から60万人以上の復興城主が寄付に参加するなど、 災害復興と文化財保存の象徴となっている。 NHK大河ドラマ「葵 徳川三代」「軍師官兵衛」など映像作品にも度々登場し、 黒田官兵衛や加藤清正の物語の舞台として日本人の心に刻まれてきた。
建築的詳細
熊本城の縄張りは茶臼山丘陵(標高約50メートル)を活用した連郭式平山城で、 東西約1.6キロ・南北約1.2キロに及ぶ大規模城郭である。 天守は大天守(3層6階地下1階・地上30.3メートル)と小天守(2層4階地下1階)の連結式構成で、 1960年の外観復元では鉄筋コンクリート造ながら黒漆の下見板と白漆喰の絶妙な対比意匠が忠実に再現された。 城内には大小49の櫓・18の櫓門・29の城門が築かれ、 現存12天守には含まれないものの宇土櫓は唯一焼失を免れた近世の3層5階櫓として国の重要文化財に指定されている。 石垣は野面積み・打込接ぎ・切込接ぎの3技法が時代別に観察でき、 特に二様の石垣(古い清正期と新しい細川期が並ぶ箇所)は築城史の生きた教科書である。 武者返しと呼ばれる石垣は下部はゆるやかな傾斜から上部にかけて反り返る独特の曲線を描き、 攻め手が登れないよう設計された。 屋根瓦には地震時に意図的に落ちる設計が施され、 屋根の荷重を軽減して建物本体の倒壊を防ぐ機能を果たした。 2016年地震時もこの設計が功を奏し、 大天守本体は致命的損傷を免れた。