鹿児島城
鹿児島県 · JP
天守なき名城、 復元された御楼門が薩摩の魂を映す日本100名城・鶴丸城
鹿児島県鹿児島市の城山麓に1601年に島津忠恒が築いた屋形造の平山城。 天守を持たない異色の城で、 西郷隆盛が学んだ私学校跡の石垣に西南戦争の弾痕が今も残り、 2020年に木造復元された御楼門が薩摩77万石の威風を伝える日本100名城。
ベストシーズン・ベストタイム
城山一帯の桜と御楼門の白木の対比が映え、 城山展望台からの桜越し市街地遠望も格別
★★★★☆
外堀のハスが開花、 朝6時頃の薄紅色と石垣のリフレクションが絶景の穴場時期
★★★★☆
城山の照葉樹林の紅葉と石垣の景観、 涼しく快適で観光客も少なめの好機
★★★★☆
桜島の冠雪が遠望でき、 朝の澄んだ光に御楼門が美しく浮かび上がる時期
★★★☆☆
見どころ TOP 3
1.2020年復元の御楼門 (大手門櫓門)
高さ約20メートル・幅約20メートルの巨大櫓門が、 鶴丸城御楼門復元委員会の官民連携で2020年に木造復元。 1873年焼失以来147年ぶりの威風で、 内部柱組や木組の伝統工法が現代に蘇り、 薩摩77万石の格式を伝える城のシンボルとなった。
石橋越しに正面から、 朝の斜光で梁の陰影を撮るのが定番
2.私学校跡の石垣に残る西南戦争の弾痕
出丸跡に1874年に西郷隆盛が設立した私学校跡の石垣には、 1877年の西南戦争で官軍が放った銃弾の痕が無数に残る。 表面に深く穿たれた穴の一つ一つが幕末維新の動乱と薩摩士族の最期を物語り、 歴史好きにとって必見の遺構である。
午後の順光で石垣表面に近寄り弾痕の陰影を捉える
3.ハスの名所として知られる外堀
御楼門前から南北に伸びる外堀は、 明治期に植えられたとされる蓮で夏に水面が薄紅色に染まる名所。 石垣と水鏡に映る御楼門のリフレクションは絶景で、 7月中旬から8月上旬の開花期に早朝訪問するのが最も美しい。
御楼門西側の橋から堀面と門を縦構図で
物語・伝説
こんな人におすすめ
現地で知るべき豆知識
- 1.御楼門の内部公開は通常見られないが、 鹿児島県主催の特別公開イベント(年数回)では櫓内部の木組構造を間近で見学でき、 復元工事の技術解説パネルも展示される穴場機会となっている
- 2.城山展望台へは黎明館裏から徒歩約20分の登山道があり、 山頂からは桜島と市街地の絶景パノラマ。 西郷終焉の地である洞窟も途中にあり、 鶴丸城と一体で薩摩史をたどる王道散策ルートとなる
- 3.黎明館の常設展示は薩摩藩政期の暮らしや琉球交易・西南戦争の資料が圧倒的に充実し、 入館料410円で半日楽しめる。 第3月曜休館のため訪問日確認が必要、 月曜訪問は前日確認が無難である
訪問情報
- アクセス
- 鹿児島中央駅から市電(系統2)で約15分、 「市役所前」電停下車徒歩5分。 鹿児島空港からは空港リムジンバスで約40分の天文館経由で同電停。
- 所要時間
- 御楼門と黎明館で2時間、 城山展望台往復含めて半日が目安。
- 予算目安
- 御楼門・石垣見学は無料。 黎明館入館料 大人410円。 (2024年時点、 公式サイトで最新確認推奨)
周辺観光
城山展望台へは黎明館裏から徒歩約20分、 山頂から桜島と市街地の絶景パノラマと西郷隆盛終焉の地の洞窟が組合せ可。 徒歩15分の西郷隆盛銅像、 車15分のフェリーで桜島観光、 仙巌園(島津家別邸)へも車15分でアクセス可能。
詳しく知る
時間のある方向けの詳細情報。
年表
- 1601年
築城開始
島津忠恒(家久)が関ヶ原敗戦後の薩摩藩主として、 城山東麓に四神相応の地として鶴丸城築城を開始した
- 1604年
鹿児島城完成
天守と高石垣を持たない屋形造の城が竣工。 幕府への恭順と外城制度の運用思想を体現した異例の構造
- 1612年
御楼門建造
大手門に1重2階の御楼門が建てられ、 薩摩77万石の格式を象徴する城のシンボルとなった
- 1863年
薩英戦争で被弾
義弘の懸念通り英国艦隊の砲弾が奥御殿に着弾。 海岸近接の防御不利が現実化した歴史的瞬間
- 1873年
本丸と御楼門焼失
明治政府下で鎮西鎮台第二分営が置かれた本丸が火災により焼失、 御楼門も同時に失われた
- 1874年
私学校設立
出丸跡に西郷隆盛が私学校を設立、 後に西南戦争の薩摩士族側中核となる人材を育成した
- 1877年
西南戦争で二の丸焼失
西南戦争最終局面で二の丸が焼失、 私学校石垣に政府軍の銃弾痕が無数に残ることとなった
- 1983年
黎明館開館
本丸跡に鹿児島県歴史資料センター黎明館が開館、 南九州の通史展示拠点として機能開始
- 2006年4月
日本100名城選定
財団法人日本城郭協会により日本100名城の第97番に選定され、 全国的な城郭観光地として認知
- 2020年4月
御楼門復元・公開
鶴丸城御楼門建設協議会の官民連携事業で木造復元工事が完了、 4月11日に一般公開が始まった
- 2023年
国史跡指定
鹿児島(鶴丸)城跡として国の史跡に正式指定。 西南戦争弾痕石垣等を含む城域全体が保護対象に
歴史をもっと深く
鹿児島城の歴史は慶長6年(1601年)、 関ヶ原の戦い(慶長5年/1600年)で西軍に属し敗北した島津氏の新たな居城として、 17代当主島津忠恒(家久)が築城を開始したことに始まる。 城山(旧称・上山)は南北朝時代には上山氏の上山城が築かれており、 後に島津氏に明け渡された地である。 忠恒は四神相応の地として現地を選定し、 城山東麓に屋形を築いて居城とした。 慶長9年(1604年)に完成したが、 忠恒の実父で義弘は海岸近くの立地が防御に不利と判断し最後まで築城に反対しており、 公称77万石の大名の城としては天守や高石垣を持たない極めて異例の「屋形造」となった。 これは江戸幕府への恭順を示す政治的意図と、 中世式の山城を各地に残し113区画を家臣に守らせる外城制度で領国全体を防衛するという薩摩独自の防衛思想に基づくものである。 慶長11年(1606年)に大手虎口の橋が架橋され、 慶長17年(1612年)に「御楼門」と呼ばれる大手門の櫓門が建てられた。 江戸期を通じて島津氏歴代の居城として機能したが、 災害とシロアリ被害が多く幾度も焼失・倒壊と再建を繰り返した。 文久3年(1863年)の薩英戦争では、 義弘の懸念通り英国艦隊の砲弾が奥御殿に着弾した。 明治4年(1871年)の廃藩置県後、 城には鎮西鎮台第二分営が置かれたが、 明治6年(1873年)の火災で本丸と御楼門が焼失。 明治7年(1874年)に西郷隆盛が出丸跡に私学校を設立したが、 明治10年(1877年)の西南戦争で二の丸も焼失し、 政府軍の銃弾が私学校石垣に多数の弾痕を残した。 明治34年(1901年)以降は第七高等学校造士館の校地、 戦後は鹿児島大学医学部などとして使用され、 昭和58年(1983年)に本丸跡に鹿児島県歴史資料センター黎明館が開館。 平成18年(2006年)4月6日に日本100名城に選定された。 平成27年(2015年)に「鶴丸城御楼門建設協議会」が官民連携で設立、 平成29年(2017年)9月から令和2年(2020年)3月までの工期で木造復元が完了し、 同年4月11日に一般公開が始まった。
文化的背景と意義
鹿児島城は別名「鶴丸城」と呼ばれるが、 これは絵地図や文献上の正式名称は鹿児島城であり、 鶴丸城は通称である。 由来は城山が原良側から見た際に鶴が羽を広げたように見えたことから「鶴丸山」と呼ばれ、 その麓の屋形も鶴が羽を広げた形状であったことに因む。 城跡は令和5年(2023年)に国の史跡に指定された。 鹿児島城の最大の文化的意義は、 天守・高石垣を持たない「不思議な城」(明治期の本富安四郎『薩摩見聞記』評)として、 薩摩藩独自の外城制度と幕府への政治的恭順を物理的に体現している点にある。 113の外城が領国全体を防衛し、 居城は象徴的存在に過ぎないという思想は、 同時代の他大名の天守至上主義と対極を成す。 また私学校石垣に残る西南戦争の弾痕は、 明治政府と薩摩士族の最終決戦という日本近代史の転換点を物理的に伝える稀有な遺構である。 鹿児島県立鶴丸高等学校が鹿児島城の別名を校名の由来としており、 県民にとって精神的支柱の一つとなっている。 2020年御楼門復元は、 城郭木造復元の近年代表事例として全国の城郭研究者の注目を集めた。
建築的詳細
鹿児島城の縄張りは城山(標高108メートル)を背にし、 東麓に本丸、 その南に二の丸を配置した連郭式の平山城である。 ただし「屋形造」と呼ばれる構造は、 麓の本丸・二の丸が低い石垣と堀に囲まれた屋敷型の構造で、 天守・天守台・高石垣を持たない極めて簡素な城郭であった。 防御は背後の城山を「後詰めの城」とし、 初代城代の島津常久(歳久の孫)が城山に住んだが早世後は聖域として立入禁止区域とされた。 大手門の御楼門は慶長17年(1612年)築の1重2階の櫓門で、 高さ約20メートル・幅約20メートルと国内最大級の規模。 1873年焼失以前の写真が複数残存し、 これらの写真と『大日本沿海輿地全図』の絵図、 文献記録を総合して2020年復元工事が行われた。 復元では伝統的な貫工法・込栓組み・墨付け加工など江戸期の木組技法を再現し、 主要材は国産ヒノキ・ケヤキを用い、 構造材の組み立ては機械釘を使わず木組のみで行われた。 石垣は野面積み主体で、 私学校跡の石垣には大小の銃弾痕が無数に観察できる。 御楼門前の石橋は慶長期築造の遺構が現存し、 堀は北側でハス田として機能する。