忍城
行田市 · JP
石田三成の水攻めにも沈まなかった、関東七名城に数えられた浮き城
埼玉県行田市の沼沢地に成田氏が築いた忍城は、1590年に石田三成率いる豊臣の大軍の水攻めを耐え抜いた「浮き城」として名を馳せた要害。江戸期は10万石の藩庁、現在は再建御三階櫓と石田堤跡が往時の戦記を伝える。
ベストシーズン・ベストタイム
本丸広場の桜と御三階櫓のコラボが見頃、市民の花見スポットとして賑わう最盛期
★★★★★
水城公園の蓮や睡蓮、夕涼みの散策が心地よい、平日朝の訪問が涼しく快適
★★★☆☆
毎年11月第二日曜の忍城時代祭りで武者行列と火縄銃演武が見られる、歴史好きの必見期
★★★★★
空気が澄み晴天率も高く、撮影と郷土博物館見学に最適、人も少なく落ち着く
★★★☆☆
見どころ TOP 3
1.再建御三階櫓と本丸の城景
1988年に外観復興された御三階櫓は鉄筋コンクリート造ながら、白漆喰と黒い下見板の対比が美しい。内部は行田市郷土博物館の展望室を兼ね、最上階からは関東平野と利根川流域を一望できる、忍城観光の象徴的ビューポイントである。
南東の本丸広場から正面構図、桜の3月下旬-4月上旬が映える
2.石田三成の本陣・丸墓山古墳と石田堤跡
1590年の忍城水攻めで三成が本陣を置いた丸墓山古墳は埼玉古墳群最大の円墳で、頂上から忍城方面を一望できる。近くには総延長28kmに及んだ石田堤の遺構が残り、案内板とともに日本史上最大級の水攻め土木事業の規模を伝えている。
丸墓山頂上から北東方向の忍城方角ショット、緑の濃い初夏が好機
3.水城公園に残る浮き城の沼の名残
城の南側に広がる水城公園は、忍城を取り囲んでいた広大な沼地の一部を整備したもの。湿地と水堀の景観が「浮き城」の名の由来をそのまま体感させ、地元住民が釣りや散策を楽しむ憩いの場として親しまれている。
夕方の逆光で水面と木々のシルエットを撮ると往時の沼の趣を表現できる
物語・伝説
こんな人におすすめ
現地で知るべき豆知識
- 1.御三階櫓は史実とは位置・規模が異なる外観復興で、本来の天守跡は本丸広場の別の場所にある。郷土博物館内の「忍城鳥瞰図」と現地縄張り図を見比べると当時の城の真の姿が見えてくる
- 2.JR行田駅と秩父鉄道行田市駅は別駅で2km以上離れているため要注意。城へは秩父鉄道「行田市駅」徒歩15分が最短ルートで、JR行田駅からは行田市内循環バス利用が必要となる
- 3.忍城と埼玉古墳群(丸墓山古墳・稲荷山古墳)は徒歩30分圏でセットで巡れる。映画『のぼうの城』で三成本陣として描かれた丸墓山古墳の頂上は必訪、忍城を遠望できる絶景ポイント
訪問情報
- アクセス
- 秩父鉄道行田市駅から徒歩15分、またはJR高崎線吹上駅から朝日バス約10分「忍城」下車徒歩5分。東京駅からJR高崎線で約1時間半の日帰り圏。
- 所要時間
- 御三階櫓と郷土博物館で1時間半、石田堤跡・古墳群含めて半日が目安。
- 予算目安
- 郷土博物館・御三階櫓共通入館料 大人200円・小中学生100円。(2024年時点) 公式サイトで確認推奨。
周辺観光
徒歩20分の埼玉古墳群は丸墓山古墳・稲荷山古墳など9基の古墳が集まる国指定特別史跡で、石田三成の本陣跡として水攻めの戦跡探訪も可能。車10分の足袋蔵歴史資料館、車30分の秩父鉄道沿線の長瀞渓谷も組合せ可能で、秩父・川越方面と合わせ1泊2日の小旅行が組める。
詳しく知る
時間のある方向けの詳細情報。
年表
- 1478年
成田氏築城
成田正等・顕泰父子が扇谷上杉氏配下の忍一族を滅ぼし、湿地帯に忍城を築いたと伝わる
- 1479年
上杉氏との和解
築城に反発した扇谷上杉氏に攻められるが、家宰太田道灌の仲介で和解、成田氏が領有を続ける
- 1574年
上杉謙信の包囲
関東遠征中の上杉謙信に城を包囲され城下を焼かれるが、湿地の要害は落城せず持ちこたえる
- 1590年
忍城の戦い (水攻め)
石田三成率いる2万3千の豊臣軍が水攻めを敢行するが沈まず、小田原本城降伏により開城、「浮き城」の異名の由来となる
- 1590年
松平忠吉入封
徳川家康関東入部に伴い四男松平忠吉が配置され、忍藩10万石の政庁となる
- 1639年
阿部忠秋の拡張整備
老中阿部忠秋が入封し城の拡張を開始、御三階櫓の新築など近世城郭として整備される
- 1702年
縄張り完成
元禄15年、阿部氏の代で忍城の縄張りと城下町整備が完成、近世城郭としての姿が確立する
- 1871年
廃藩置県・忍県設置
廃藩置県により忍県が設置され二の丸に県庁が置かれたが、まもなく埼玉県に編入される
- 1873年
廃城令で取壊し
明治6年に廃城となり構造物の大半が撤去、本丸土塁の一部のみが残された
- 1988年
郷土博物館開館・御三階櫓再建
本丸跡に行田市郷土博物館が開館、御三階櫓が鉄筋コンクリート造で外観復興される
- 2012年
映画『のぼうの城』公開
和田竜原作の映画が公開され忍城の水攻め籠城戦がドラマ化、全国に名が知れ渡る
- 2017年
続日本100名城選定・日本遺産認定
続日本100名城(118番)に選定、日本遺産「足袋蔵のまち行田」の構成資産にも加えられる
歴史をもっと深く
忍城の歴史は文明10年(1478年)頃、地元豪族の成田正等・顕泰父子が、扇谷上杉氏配下の忍一族を滅ぼして築城したことに始まる。翌年扇谷上杉氏に攻められたが太田道灌の仲介で和解し、成田氏が領有を続けた。永禄2年(1559年)上杉謙信が関東遠征に来ると成田氏は当初恭順、永禄4年(1561年)の小田原城攻めには城主成田長泰も参加した。しかし鶴岡八幡宮での関東管領就任式後に離反し、天正2年(1574年)には謙信に忍城を包囲され城下を焼かれたが持ちこたえている。最も有名な攻防戦は天正18年(1590年)の忍城の戦い。豊臣秀吉の関東平定に際し、城主成田氏長は小田原城に籠城し、留守を預かる叔父成田泰季が城代となり侍500人・農民町人3000人で立て籠もった。豊臣方の総大将は石田三成、大谷吉継・長束正家・真田昌幸らも加わり総兵力23000人。三成は本陣を忍城を一望する丸墓山古墳(埼玉古墳群)に置き、利根川を利用した水攻めを決行、総延長28kmの石田堤を建設した。しかし湿地に築かれた城は沈まず、結局は小田原城が先に落城したことで開城となった。これが「忍の浮き城」の異名の由来となる。徳川家康の関東入部後、家康の四男松平忠吉が配置され忍藩10万石の政庁となった。寛永16年(1639年)に老中阿部忠秋が入封して城の拡張整備を進め、御三階櫓を新築するなど近世城郭として完成、元禄15年(1702年)に縄張りが完成した。文政6年(1823年)に阿部氏が白河へ移ると、桑名から松平忠堯(奥平松平氏)が入った。明治4年(1871年)の廃藩置県で「忍県」県庁が二の丸に置かれたが、明治6年(1873年)廃城となり構造物の大半が撤去された。城跡は成田公園(後に忍公園)として整備され、昭和24年(1949年)には本丸跡に行田市本丸球場が造られたが後に移転。昭和63年(1988年)2月17日にその跡地に行田市郷土博物館が開館し、御三階櫓が外観復興された。平成29年(2017年)には続日本100名城(118番)に選定、同年4月28日には日本遺産「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」の構成資産にも加えられた。
文化的背景と意義
忍城は関東七名城の一つに数えられ、後北条氏の支城網の中で唯一最後まで秀吉軍に持ちこたえた要害として戦国史に名を残す。「浮き城」「亀城」の異称は、湿地と水堀に囲まれた地形と、水攻めにも沈まなかった逸話に由来する。江戸期は譜代・親藩大名の居城となり、阿部氏4代の治世下で城下町が中山道裏街道宿場・利根川水運の物流拠点として繁栄、江戸後期からは足袋の産地として全国に知られるようになった。この足袋産業は近代にも続き、2017年に日本遺産「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」として認定、忍城も構成資産となった。和田竜の小説『のぼうの城』(2007年)とその映画化作品(2012年、野村萬斎主演)は忍城の戦いをドラマチックに描き、戦国ファン以外の一般層にもこの城を知らしめた文化的影響は大きい。城跡は埼玉県指定旧跡、本丸土塁が現存遺構として残り、北谷門が加須市總願寺に、藩校進修館の門が郷土博物館南側に移築現存する。毎年11月第二日曜の「行田商工祭・忍城時代祭り」では武者行列と堀での火縄銃演武が再現される。
建築的詳細
忍城は湿地帯を最大限活用した平城で、元々沼地だった地形に点在する自然堤防の島々を曲輪として、橋で連結する独特の縄張りを持つ。当初は天守を立てずに本丸を空き地とし、二の丸に屋敷を構えて住まいとした「攻めにくく守りやすい」構造であった。江戸期に阿部忠秋が大規模拡張を行い、本丸・二の丸・三の丸・諏訪曲輪などの曲輪群と水堀を整備、御三階櫓を新築して城の象徴とした。御三階櫓は天守相当の3層3階で、白漆喰塗込めの壁面と黒い下見板張りの腰壁の対比が特徴的な意匠だった。現在の御三階櫓(1988年再建)は鉄筋コンクリート造の外観復興で、史実とは位置・規模が異なるが「忍城鳥瞰図」など史料を基に往時の意匠を再現している。城下の縄張りは沼地と水路を堀代わりに利用した独創的な防御構造で、当時の沼の名残は南側の水城公園に見て取れる。現存遺構としては本丸土塁の一部が城跡内に残存、北谷門が加須市總願寺に、高麗門形式の城門が郷土博物館駐車場脇に、藩校進修館の門が郷土博物館南側に、それぞれ移築されている。