
鳥取城
鳥取城は、鳥取市の久松山にあった戦国から江戸期の梯郭式平山城。1581年に羽柴秀吉が行った苛烈な兵糧攻め「鳥取城の渇え殺し」の舞台として日本史に名を残し、戦国期山城から幕末藩庁までの築城技術が一城地に堆積する「城郭の博物館」と称される。国の特別史跡で、日本100名城の63番、2021年に大手門が木造復元。
3行サマリ
- 鳥取県鳥取市の標高263m久松山に位置する戦国から江戸期の梯郭式平山城、別名久松城。
- 1581年「鳥取城の渇え殺し」の舞台、 羽柴秀吉による苛烈な兵糧攻めで開城した。
- 戦国期から幕末までの遺構が層をなす「城郭の博物館」、 国の特別史跡で日本100名城。
歴史
鳥取城は、鳥取県鳥取市の久松山(標高263メートル)から麓にかけて広がる、戦国時代から江戸時代の日本の城である。久松城または久松山城とも呼ばれ、城跡全域が国の特別史跡に指定されている。山頂に山上の丸を、山麓に天球丸・二の丸・三の丸といった近世曲輪を配する梯郭式の平山城で、戦国期山城から近世城郭、幕末藩庁までの築城技術が一つの城地に層をなして残る稀有な城郭遺産であり、「城郭の博物館」の異名で知られる。
築城の正確な時期は不明だが、近年の研究では天文年間(1532-1555年)に但馬山名氏が因幡山名氏に対する付城として築いた可能性が支持されている。永禄年間に因幡山名氏家臣の武田高信が拠点化して下剋上を果たすと、1573年に尼子残党と結んだ山名豊国の攻撃で城を明け渡し、同年に豊国は因幡守護所を布勢天神山城から鳥取城へ移した。以後、毛利氏の侵攻と尼子残党との争奪戦を経て、1575年の芸但和睦で豊国が城主に落ち着いた。
1580年(天正8年)、織田信長の中国攻めを担う羽柴秀吉による第一次鳥取城攻めが行われ、豊国は3か月の籠城の末に降伏。翌年3月には毛利氏の重臣吉川経家が新城主として迎えられたが、4月に豊国が織田氏へ密使を送って内通が発覚し、秀吉は再び鳥取城を攻めることとなる。秀吉は若狭から商船を因幡へ送り込み米を高値で買い占め、さらに付近の農民2000人余を城に追い込んだうえで河川と海からの兵糧搬入を完全に遮断した。20日分しかなかった城内の食糧は瞬く間に尽き、4か月後には餓死者が続出する凄惨な状況に至り、後世「鳥取城の渇え殺し」と呼ばれるこの兵糧攻めは秀吉の代表戦例として知られる。同年10月25日、経家が将兵の助命を条件に切腹して開城した。
開城後の鳥取城には浅井氏旧臣で秀吉の与力宮部継潤が城代として入り、山陰攻略の拠点となった。継潤は1585年の九州征伐の功で因幡・但馬5万石を与えられ正式な城主となり、その後豊臣政権下で五奉行として活躍した。1600年の関ヶ原の戦いでは継潤の子長房が西軍に属して敗れ改易、関ヶ原での功で池田長吉が6万石で入封して鳥取城を近世城郭へと改修した。1617年(元和3年)に池田光政が32万5000石で入府して大藩に相応しい規模に拡張し、その後池田光仲が入封して以後12代にわたり鳥取藩池田氏の居城として明治維新を迎えた。
1692年(元禄5年)の落雷で天守が焼失し、以後再建されることはなかった。1873年の廃城令で陸軍省所管となり、1876年に鳥取県が一時島根県に編入された影響で、1879年から建造物の解体が始まり、1881年の鳥取県再置までに城門と一部建物を残してほぼすべての建造物が失われた。1957年に国の史跡指定、1987年に範囲拡張、2006年に日本100名城(63番)に選定。2005年策定の「史跡鳥取城跡附太閤ヶ平保存整備基本計画」では、2006年度から30年・51億2千万円をかけて幕末期の姿に木造復元する事業が進行しており、2021年3月13日には大手門の木造復元工事が完了して一般開放された。
文化的意義
鳥取城は、戦国期山城から近世城郭、幕末藩庁までの築城技術が一城地に堆積する点で、日本城郭史において代替不能な参考事例である。山頂の山上の丸と山麓の天球丸・二の丸の関係は、地形を読み込んだ戦国期防衛思想と、近世大名の威信表現の都市的城郭が同時に観察できる稀有な構造を示す。1581年の「鳥取城の渇え殺し」は、攻城戦における兵糧攻めの極致として日本軍記文学と医学史の双方で参照され続けており、開城後の救援粥による多数死は近代医学のいうリフィーディング症候群の歴史的事例として再評価されている。天球丸の球面状に積まれた「巻石垣」は、孕み出した石垣を補強する近世末期の独特の工法を伝える日本唯一の現存例として、修復技術の参照基準となっている。
建築的特徴
鳥取城は、標高263メートルの久松山頂上を中心とする山上の丸と、麓に展開する天球丸・二の丸・三の丸・右膳の丸などからなる梯郭式の平山城である。山上の丸には天守、車井戸、御旗櫓、着見櫓、多聞櫓があり、天守は本丸西方の出丸とともに北西隅に位置していた。北西隅の天守台は南北10間5尺・東西10間2尺のほぼ正方形で、現存天守の犬山城天守台とほぼ同じ大きさを持つ。1573年に布勢天神山城から移築されたとされる3層天守は、池田長吉時代に強風によるゆがみを避けて2層に改築された。屋根は杮葺または板葺、外装は下見板張りで、寒気に配慮した造りであった。山麓の天球丸には、孕み出した石垣を球面状に巻き付けて補強する独特の「巻石垣」が現存し、近世末期の石垣補修技術として日本唯一の事例とされる。西坂・中坂・東坂の尾根筋には戦国期の遺構が多数残り、戦国期山城から近世平山城まで、築城技術の変遷を一つの城地で読み解ける。
訪問ガイド
鳥取城跡は、JR西日本山陰本線鳥取駅から市内100円バス「ループ麒麟獅子」または徒歩で約30分の久松山麓にある。城域への入場は基本的に無料で、登山道を辿って山上の丸まで往復する場合は2時間から2時間半を見込みたい。山麓部の天球丸・大手門・二の丸石垣のみの見学なら1時間で巡れる。隣接する仁風閣(明治期の洋館)は同一エリアで観覧可能で、こちらは別途入場料が必要となる。2021年に木造復元された大手門は、近年の城郭木造復元事業の見学例として注目され、ガイドによる解説が定期的に行われている。最新の見学ルート・閉鎖区間・ガイドツアーの開催日は鳥取市公式観光サイトで事前確認したい。秋の紅葉と春の桜が城跡の景観を引き立て、特に大手門と天球丸の巻石垣を背景にした撮影が人気である。
周辺スポット
城のお膝元には鳥取県立博物館があり、鳥取城跡の出土品と県内の城郭・歴史の常設展示で前史を補える。徒歩圏には明治期の片山東熊設計の洋館仁風閣、宝永の頃に開かれた鳥取藩主池田家の墓地国府町宇倍野(車で20分)、世界ジオパーク認定の山陰海岸ジオパークの起点となる鳥取砂丘も車で15分の距離である。福部町の砂の美術館は鳥取砂丘と隣接し、世界の砂像彫刻家による大規模作品を年替わりで観られる。秀吉の本陣跡である太閤ヶ平は、鳥取城跡の構成資産として登山道で結ばれ、攻城側からの俯瞰視点を体感できる希少な遺構である。
現代における価値
鳥取城跡は、地方都市が30年計画で進める城郭木造復元事業の代表例として、文化財保存の現代的課題に直接的な答えを示している。2005年に始まった史跡保存整備基本計画は、地域財源を含めた長期コミットの下で段階的復元を進めるモデルとして、他自治体からの視察対象にもなっている。「鳥取城の渇え殺し」を伝える太閤ヶ平との一体保存は、攻城側と守城側の双方の視点を保存対象に含める日本城郭研究の到達点である。訪問者にとってこの城跡は、城を建てる側と落とす側、そして文化財として残す側の三層の意思を、空間として読み解ける学習の場でもある。