鹿苑寺
北区 · JP
鏡湖池に映る黄金の楼閣 — 室町文化の精粋を伝える世界遺産の禅寺
京都市北区に佇む鹿苑寺は、 室町三代将軍足利義満が応永4年(1397年)に造営した北山山荘を起源とする臨済宗相国寺派の禅刹。 二層・三層を金箔で総覆いした舎利殿「金閣」が鏡湖池の水面に映り、 古都京都の文化財として世界に名を馳せる。
ベストシーズン・ベストタイム
新緑萌え始めの松林と金閣のコントラストが映える、 桜の名所ではないが人出は最盛期
★★★★☆
深緑の松と金箔の対比が眩しく、 早朝開門直後なら涼しく観光客も少ない
★★★☆☆
鏡湖池畔の楓が真紅に染まり、 金閣を背景にした紅葉は京都屈指の名場面
★★★★★
雪化粧の金閣は年に数日のみの幻景、 早朝出陣の写真愛好家で開門前に行列となる
★★★★★
見どころ TOP 3
1.鏡湖池に映る金閣の水鏡
舎利殿(金閣)は宝形造・杮葺の三層楼閣で、 二・三層の外面に純金箔約20kgが貼られる。 鏡湖池の水面に「逆さ金閣」が映る瞬間は、 室町北山文化の華麗を一枚に凝縮した京都随一の絶景である。
拝観順路の最初の正面ビューポイントから、 早朝の無風時に水鏡が出現する
2.雪化粧の金閣 — 一冬数日の幻景
京都市内で本格的に積雪する日は冬に2〜3日程度しかなく、 雪を被った金閣は「一年で最も美しい瞬間」と評される稀少な絶景。 白雪と金箔と緑松のコントラストは平安期からの「雪月花」の美意識を体現する。
降雪翌朝の9時開門直後を狙う、 池端の最前列が定石
3.特別名勝「鹿苑寺庭園」と苔の小径
鏡湖池を中心とする池泉回遊式庭園は義満時代の北山山荘の遺構を残し、 特別史跡・特別名勝の二重指定を受ける。 安民沢・龍門滝・夕佳亭への苔むした小径は、 室町禅院庭園の典型として国際的に評価される。
順路後半の安民沢周辺、 雨上がりの午後の柔らかい光が苔の緑を際立たせる
物語・伝説
こんな人におすすめ
現地で知るべき豆知識
- 1.開門9時直後の最初の30分が水鏡と人の少なさを両立する黄金時間帯。 11時以降は団体ツアーで池端の最前列がほぼ占拠されるため、 ベスト一枚を狙うなら午前一番が鉄則となる
- 2.拝観受付で配られる御札型の拝観券は和紙に朱印が押された珍しい意匠で、 京都の主要寺院でもこの形式は鹿苑寺のみ。 廃棄せず持ち帰り旅の記念やお守りとして活用する人が多い
- 3.拝観順路の最後にある茶室「夕佳亭」前の不動堂裏には抹茶と和菓子をいただける茶席があり、 金閣を眺めながら本格抹茶を楽しめる。 立礼席500円程度で混雑も少ない隠れた休憩スポット
訪問情報
- アクセス
- JR京都駅から市バス101系統/205系統で約40分「金閣寺道」下車徒歩5分、 または地下鉄烏丸線「北大路」駅から市バス101/102/204/205系統で約15分。 阪急烏丸からはタクシー約20分。
- 所要時間
- 拝観順路一巡で約60分、 周辺寺社含めると半日が目安。
- 予算目安
- 拝観料 大人500円・小中学生300円。 京都駅からの市バス片道230円、 1日券700円で龍安寺/仁和寺巡り推奨。 (2024年時点、 最新は公式サイトで確認)
周辺観光
徒歩20分・市バスで5分の龍安寺は石庭で名高い世界遺産で組合せ訪問の定番。 さらに市バス1本の仁和寺(御室)も世界遺産で「きぬかけの路」と呼ばれる三寺巡りコースが推奨される。 北方には平野神社、 北野天満宮、 大徳寺、 銀閣寺(慈照寺)など他の名刹も組合せ可能。
詳しく知る
時間のある方向けの詳細情報。
年表
- 1220年頃
西園寺公経が入手
鎌倉時代承久2年頃、 関東申次の西園寺公経が神祇官白川伯王家から尾張国松枝庄との交換で当地を入手
- 1224年
北山第の造営
公経が西園寺を建立、 山荘「北山第」と豪華な庭園を造営し、 子孫の西園寺家が代々領有した
- 1397年
義満の北山山荘造立
足利義満が河内国所領との交換で西園寺を譲り受け、 北山殿として再建、 政務の中枢を移した
- 1399年
舎利殿(金閣)完成
現在の金閣の原形となる三層楼閣が完成、 同年完成の相国寺七重大塔とともに北山文化を象徴
- 1420年
鹿苑寺と命名
義満の遺言により北山第が禅寺に改められ、 義満の法号「鹿苑院殿」から「鹿苑寺」と名付けられた
- 1467-1477年
応仁の乱で被災
西軍の陣となり多くの堂宇が焼失するが、 金閣は奇跡的に焼け残り室町の遺構として伝わる
- 1649年
江戸期の大修理
西笑承兌が住職を務めた後、 慶安2年に金閣の大修理が行われ江戸期の補修が施された
- 1929年
国宝指定
国宝保存法施行に伴い金閣が(旧)国宝に指定され、 文化財保護の対象に組み込まれた
- 1950年7月
金閣寺放火事件
学僧林承賢(21歳)の放火で国宝金閣と仏像10体が全焼、 三島由紀夫『金閣寺』の題材となる
- 1955年
金閣再建
1952年着工、 1955年10月10日落慶法要、 明治期解体修理図面をもとに創建当時の姿で復元
- 1986-1987年
昭和大修復
総量約20kg・厚さ0.5マイクロメートルの厚金箔を再貼布、 現在の輝きはこの修復に由来する
- 1994年12月
世界文化遺産登録
ユネスコ世界文化遺産「古都京都の文化財」の構成資産17件のひとつとして登録された
歴史をもっと深く
鹿苑寺の歴史は、 鎌倉時代の承久2年(1220年)頃に西園寺公経が当地を入手し、 元仁元年(1224年)に西園寺と山荘「北山第」を造営したことに遡る。 公経は朝廷と鎌倉幕府を仲介する関東申次として権勢を誇り、 子孫の西園寺家が代々この地を領有した。 しかし1335年(建武2年)、 当主西園寺公宗が後醍醐天皇暗殺を企てたことが発覚し処刑、 所領は没収されて北山第は荒廃の一途を辿った。 応永4年(1397年)、 室町幕府第三代将軍足利義満が河内国の所領と交換することで西園寺を譲り受け、 大規模な改築と新築によって北山山荘を造立した。 将軍職を子の義持に譲っていた義満だが実権は手放さず、 北山殿で政務を執り、 規模は御所に匹敵したという。 応永6年(1399年)頃、 現在の舎利殿(金閣)が完成、 同年完成の相国寺七重大塔(高さ約109メートル、 日本史上最高の仏塔)とともに北山文化を象徴する建築群となった。 応永15年(1408年)の義満没後、 義持は応永27年(1420年)に父の遺言で北山第を禅寺とし、 義満の法号「鹿苑院殿」から「鹿苑寺」と命名、 夢窓疎石を勧請開山として臨済宗相国寺派の境外塔頭とした。 応仁の乱(1467-1477)では西軍の陣となり多くの堂宇が焼失するが、 金閣は奇跡的に焼け残った。 江戸時代、 西笑承兌が徳川家康の命で住職となり主要堂宇が再建され、 慶安2年(1649年)に金閣の大修理が行われた。 明治の廃仏毀釈で寺領の多くを失うが、 第十二世住職貫宗承一が1894年(明治27年)から拝観料を徴収して寺収入を確保。 1897年(明治30年)12月28日に古社寺保存法による「特別保護建造物」に指定、 1929年(昭和4年)に旧国宝に指定された。 1950年(昭和25年)7月2日未明、 学僧・林承賢(当時21歳)の放火により金閣は全焼、 国宝の足利義満坐像など仏像10体も焼失した。 林は寺の裏山で自殺未遂、 一命を取り留めたが彼の実母は事件翌日に保津峡で投身自殺するなど大きな悲劇を生み、 三島由紀夫の小説『金閣寺』、 水上勉『五番町夕霧楼』『金閣炎上』の題材ともなった。 1952年(昭和27年)着工、 1955年(昭和30年)10月10日落慶法要が営まれ創建当時の姿に復元された。 1986-87年の昭和大修復、 1997年の夕佳亭解体修理、 2005-07年の方丈解体修理を経て、 1994年(平成6年)12月にユネスコ世界文化遺産「古都京都の文化財」の構成資産として登録された。
文化的背景と意義
鹿苑寺(金閣寺)は1994年(平成6年)12月にユネスコ世界文化遺産「古都京都の文化財」の構成資産17件のひとつとして登録された京都を代表する禅刹である。 庭園は1925年(大正14年)10月8日に史跡・名勝、 1956年(昭和31年)7月19日に特別史跡・特別名勝に二重指定されており、 鎌倉時代の西園寺家庭園の遺構を含む室町禅院庭園の典型として国際的に評価される。 通称「金閣寺」は舎利殿の金箔覆いに由来し、 開基足利義満の法号「鹿苑院殿」から取られた正式名「鹿苑寺(北山鹿苑禅寺)」より広く知られる。 北山文化の中心地として、 義満の時代には能・狂言の創始者世阿弥の庇護や日明貿易の拠点機能も担い、 室町幕府の文化的黄金期を象徴する場所であった。 1950年の金閣寺放火事件は戦後日本の文学・芸術に多大な影響を与え、 三島由紀夫『金閣寺』(1956年)は世界文学の名作として各国語に翻訳された。 川端龍子の日本画『金閣炎上』、 水上勉『五番町夕霧楼』『金閣炎上』、 さらに映画化作品など、 単一の事件として戦後日本最多級の芸術的反応を引き起こした事例である。 現在は年間約400万人の参拝者が訪れる京都観光の象徴的存在で、 銀閣寺(慈照寺)とともに「金銀」の対比で京都禅寺観光の双璧をなす。
建築的詳細
舎利殿「金閣」は木造三階建ての楼閣建築で、 鏡湖池の畔に南面して建つ。 屋根は宝形造・杮(こけら)葺きで頂部に銅製鳳凰を置き、 三階建てだが初層と二層の間に屋根の出を作らない「二重三階」形式をとる。 初層は金箔を貼らず素木仕上げ、 二層と三層の外面(高欄を含む)は全面金箔張り、 三層内部も床面を除き全面金箔張りとする。 初層と二層は同形同大で正面5間・側面4間、 三層は方3間と一回り小さい。 初層「法水院」は寝殿造、 二層「潮音洞」は鎌倉武家造、 三層「究竟頂」は唐様禅宗仏殿造と、 三つの建築様式を一棟に統合した稀有な構成で、 室町初期の建築技法の集大成と評される。 「究竟頂」の扁額は後小松天皇の宸筆であった(現存品は再建時の複製)。 1955年再建にあたっては、 1904-06年の解体修理時の図面と焼け残った旧二層隅木花入の金箔残存をもとに再現された。 ただし焼失前は二層に金箔が殆ど残っていなかったため、 二層も金箔張りとした再建版は建築史家宮上茂隆らから「過剰復元」との議論を呼んでいる。 1986-87年の昭和大修復で総量約20kg・厚さ0.5マイクロメートル(伝統手法の5倍厚)の金箔を再貼布し、 2003年には鎮守社「夕佳亭」前の常足亭茶室にチタン屋根を採用するなど、 伝統と最新技術の融合事例としても注目される。