松山城
松山市 · JP
現存12天守で最も新しい安政再建の連立式大天守を擁する四国最大の名城
愛媛県松山市の勝山山頂に築かれた平山城。加藤嘉明が1602年に着工し、現存12天守の中で最も新しい1854年(安政元年)再建の大天守を中心に、国指定重要文化財21棟と国史跡の城郭遺構が残る四国随一の歴史拠点。
ベストシーズン・ベストタイム
城山公園は日本さくら名所100選。本丸広場の桜越しに白漆喰の大天守を望む構図が一年で最も人気の最盛期。
★★★★★
城山の紅葉と松山市街の眺望が両立する季節。空気が澄み、大天守からの瀬戸内海の見え方が最良。
★★★★☆
観光客が減り、安政の意匠と石垣の陰影をじっくり鑑賞できる静穏期。本丸の井戸など細部に目が届く。
★★★☆☆
登城路は緑陰が濃く、夕方のライトアップ時間帯が涼やかで撮影向き。日中は熱中症対策必須。
★★★☆☆
見どころ TOP 3
1.現存12天守で最若年の大天守
1784年の落雷焼失から70年を経て1854年に再建された3重3階地下1階の層塔型大天守。幕末再建ゆえに普請の精度が高く、樟・欅・栂など一級の木材を用いた連立式天守として国の重要文化財に指定。
本丸広場の南東側から大天守正面と連結する小天守を1枚に収めると連立式の構造が分かる。
2.日本三大連立式平山城の本壇
大天守と小天守、南北の隅櫓を3棟の渡櫓で口の字に連結する連立式天守群。姫路城・和歌山城と並ぶ日本三大連立式平山城に数えられ、本壇広場を巡れば回廊状に天守内部を周遊できる。
西側の紫竹門前から望むと大小天守と渡櫓の連結が立体的に見える。早朝の順光が好機。
3.二之丸史跡庭園と44m深の本丸井戸
1992年に大井戸遺構や茶室、御殿跡を整備した二之丸史跡庭園。藩主の生活空間だった御殿の間取りを地表で再現し、本丸には深さ44mに及ぶ井戸が今も残る稀有な山城遺構として知られる。
二之丸庭園の北寄りから大井戸跡越しに城山の天守を望むと「居館と天守」の関係が伝わる。
物語・伝説
こんな人におすすめ
現地で知るべき豆知識
- 1.本丸へはロープウェイとリフトが並走しており、リフトは片道のみ稼働日があるので往路はリフト・復路はロープウェイで景観差を楽しむのが地元流の動線。徒歩なら東雲口・古町口など登城道5本を選べる。
- 2.野原櫓は望楼型二重櫓で、大入母屋屋根の上に物見櫓を載せた稀少な構造から「天守建築の起源」を物語る論拠と紹介される。本壇北西の外周路から眺めると、大屋根と物見の段差がよく分かる。
- 3.戸無門は慶長創建当初から扉がないため「戸無」と呼ばれ、その奥の太鼓櫓下通路は乾門方面(行止り)と戸無門方面に敵を分散させる枡形構造。順路から少し外れて振り返るとこの仕掛けが体感できる。
訪問情報
- アクセス
- JR松山駅からバス約15分で大街道下車、ロープウェイ街経由でロープウェイ・リフト乗場まで徒歩5分。本丸まではロープウェイで約3分、徒歩なら東雲口登城道から約20分。松山空港からはリムジンバスで松山市駅経由。
- 所要時間
- 本丸の天守と本壇巡りで約2時間、二之丸史跡庭園を含めると3-4時間
- 予算目安
- 天守観覧券(参考額)に加え、ロープウェイ・リフト往復が別途。市内移動の市内電車は均一運賃。詳細は公式サイトで確認。
周辺観光
市内電車で約20分の道後温泉は日本最古級の温泉で、本館は重要文化財。徒歩圏に正岡子規記念博物館、坂の上の雲ミュージアム、二之丸史跡庭園に隣接して萬翠荘(国重文)があり、城と近代松山文学を1日で巡れる動線が組める。
詳しく知る
時間のある方向けの詳細情報。
年表
- 1602年
築城開始
加藤嘉明が関ヶ原の戦功による20万石加増を受け、足立重信を普請奉行として勝山山頂に築城を開始。
- 1603年
「松山」命名
嘉明がこの地を「松山」と命名し、地名が公式に誕生。城と地名が同時に生まれた。
- 1627年
加藤嘉明会津へ転封
嘉明は松山城の完成前に会津藩へ転封となり、蒲生忠知が24万石で松山藩主に就く。
- 1634年
蒲生家断絶・在番開始
蒲生忠知が参勤交代途上で急死し伊予蒲生家が無嗣断絶。大洲藩主加藤泰興が在番として松山城を預かる。
- 1635年
松平定行入封
松平定行が15万石で藩主となり松山城に入る。以後、久松松平家が明治維新まで治世。
- 1642年
天守を3重に改築
松平定行が当初5重の天守を3重に改築。地盤の弱さと武家諸法度を意識した措置と伝わる。
- 1784年
落雷で本壇焼失
天明4年元日、落雷で天守を含む本壇の主要建物が焼失。財政難で再建は長期化する。
- 1854年
現存大天守落成
第12代藩主松平勝善が安政元年2月8日に大天守を再建し落成。現存12天守で最若年の天守となる。
- 1873年
廃城令の危機
廃城令で本丸の建物多くが解体・払下げの対象となるが、入札はなく本丸建造物群は奇跡的に残る。
- 1923年
松山市へ寄贈
本丸が旧藩主家・久松家から松山市へ寄贈され、以降市の所有となる。
- 1933年
放火事件
7月9日の放火事件により大天守を除く本壇の現存建築を焼失。大天守は奇跡的に被災を免れる。
- 1945年
松山空襲
7月26日の松山空襲で天神櫓など11棟を焼失し、本丸建造物の現存数がさらに減少する。
- 1950年
重要文化財指定
文化財保護法施行により残存21棟が国の重要文化財に指定される。
- 1952年
国史跡指定
二之丸・三之丸を含む松山城山公園が国の史跡に指定され、城郭遺構が国家的保護下に置かれる。
- 1968年
本壇建造物の木造復元
1933年の放火で失われた本壇の建造物群を木造により忠実に復元。
歴史をもっと深く
松山城は慶長7年(1602年)、関ヶ原の戦功で伊予正木10万石から20万石に加増された加藤嘉明が、勝山山頂の地に新たな居城として築城を開始した。普請奉行は足立重信。翌1603年10月、嘉明はこの地を「松山」と命名し、城下の地名が公式に誕生する。寛永4年(1627年)、嘉明は完成を待たず会津藩へ転封となり、後を継いだ蒲生忠知(蒲生氏郷の孫)は24万石で藩主に。当初5重とされた天守を完成させたとも伝えられるが、忠知は寛永11年(1634年)に参勤交代の途上で急死し伊予蒲生家は無嗣断絶。一時、大洲藩主加藤泰興が城在番として預かった。寛永12年(1635年)に松平定行が15万石で藩主となり、寛永19年(1642年)、5重から3重に改築。地盤の弱さに加え武家諸法度を意識した処置とも伝わる。天明4年(1784年)1月1日、落雷で本壇主要建物が焼失。再建は財政難の中で長期化したが、第12代藩主松平勝善が黒船来航の前年1852年に石垣普請から再建工事を完了させ、安政元年(1854年)2月8日に大天守落成。これが現存12天守の中で最も新しい3代目天守である。明治6年(1873年)の廃城令で麓の建物多くが解体・払下げの対象となったが、本丸の建造物群は奇跡的に残った。昭和8年(1933年)の放火事件と昭和20年(1945年)の松山空襲、昭和24年(1949年)の出火で計14棟を失ったが、現存する21棟は昭和25年(1950年)の文化財保護法施行により国の重要文化財となり、昭和27年(1952年)には城郭遺構が国の史跡に指定された。
文化的背景と意義
松山城は現存12天守の一つであり、国指定重要文化財21棟と国史跡(城郭遺構)を擁する四国最大の城郭である。明治以降の戦災・失火で建造物の数を減らしながらも、二条城に次ぐ現存棟数を保つ点で稀少。別名「金亀城(きんきじょう)」「勝山城(かつやまじょう)」(brief / Wikipedia 出典)はいずれも築城地・縁起にちなむ。本城は本丸と二之丸・三之丸を備える典型的な平山城で、姫路城・和歌山城と並ぶ日本三大連立式平山城に数えられる。1989年に日本さくら名所100選、2006年に日本100名城(81番)と日本の歴史公園100選、2007年には道後温泉とともに美しい日本の歴史的風土100選に選ばれた。2009年のミシュラン・グリーンガイド・ジャポンで二つ星を獲得し国際的観光地としても評価される。正岡子規が「松山や 秋より高き 天主閣」「春や昔 十五万石の 城下哉」と詠み、城は近代松山の文学的アイデンティティの中心でもあった。
建築的詳細
縄張りは勝山山頂の本丸を中心に、南西麓に二之丸、続いて三之丸、北麓に北曲輪、南東麓に東曲輪を配する典型的な平山城で、本丸から二之丸にかけて急斜面を登り石垣で囲み大手城道への侵入を防ぐ。本丸北部の本壇は天守曲輪で、大天守・小天守・南隅櫓・北隅櫓を3棟の渡櫓(廊下)で口の字に連結した連立式天守群を構成する。大天守は連立式3重3階地下1階の層塔型で、高さは20m(鯱を含めて21.3m)、本壇基壇は8.3m。建材は樟・欅・栂など一級の木材で、幕末再建ゆえに普請の精度が極めて高い。安政元年に再建された本壇一帯の建造物は屋根瓦に建造主松平(久松)家の家紋「三つ葉葵」を頂く。戸無門・隠門・乾櫓・野原櫓は安政再建ではなく江戸初期の建立で、特に野原櫓は大入母屋屋根に物見櫓を載せる望楼型二重櫓として現存例が少ない貴重な構造である。