富山城
富山市 · JP
神通川の水面に浮かぶ「浮城」、 戦国の越中を制した前田家の隠居城跡
富山県富山市丸の内、 神保長職が1543年に築き、 上杉・佐々成政・前田家と覇者を変えた越中支配の要衝。 続日本100名城に選ばれた水堀の平城は、 今は富山城址公園として街の中心に静かに佇み、 模擬天守と石垣が往時を伝える。
ベストシーズン・ベストタイム
城址公園の桜と模擬天守の対比、 内堀の水面に映る花筏が「浮城」の名を最も体現する季節
★★★★★
城址公園のイチョウ・モミジが石垣に色彩を添え、 観光客も比較的少なく落ち着いて散策できる
★★★★☆
立山連峰の白雪を背景に天守を望める日があり、 雪化粧の石垣も静謐な趣を見せる
★★★☆☆
夜間ライトアップで天守と松川越しの夜景が美しく、 富山まつりとの組合せで賑わう
★★★☆☆
見どころ TOP 3
1.模擬天守と富山市郷土博物館
1954年に鉄筋コンクリートで再現された3層4階の模擬天守は、 富山城の象徴。 内部は富山市郷土博物館として戦国期から廃城までの歴史資料を展示し、 最上階の展望からは富山平野と立山連峰を一望できる。
南東側の芝生広場から正面構図、 桜の時期は天守と桜のコラボが絶景
2.千歳御門 (現存唯一の遺構)
富山藩10代藩主前田利保が1849年に隠居所千歳御殿の正門として建てた総欅造の三間薬医門。 明治期の廃城で富山市米田の豪農へ払い下げられた後、 2006-2008年に城址公園東側へ里帰り移築された。
正面真っ向から、 切妻造の赤瓦本瓦葺と総欅造の重厚な構えを捉える構図
3.本丸石垣と内堀 (浮城の遺構)
本丸南側に残る野面積みと打込接ぎの石垣群は、 佐々成政から前田家にかけての改修の痕跡を伝える希少な遺構。 水を湛えた内堀は「浮城」の異名の所以を今に残し、 春は桜が水面に映え込む。
南側の松川沿い遊歩道から水面越し、 早朝の斜光が石垣の凹凸を際立たせる
物語・伝説
こんな人におすすめ
現地で知るべき豆知識
- 1.千歳御門は2008年に城址公園内へ移築復元されたもので、 廃城後に民間に流出した遺構が里帰りした稀有な事例。 門の柱の継ぎ目には移築時の補修跡もはっきり確認できる。
- 2.模擬天守内の富山市郷土博物館では、 江戸期の富山藩絵図や売薬資料を多数展示。 富山藩特有の「反魂丹」売薬制度の歴史も学べ、 城下町の往時と合わせて理解が深まる。
- 3.城址公園南側の松川は、 もとは神通川本流で富山城の水堀。 春は遊覧船「松川遊覧船」が桜並木の下を巡り、 水上から「浮城」の往時を追体験できる季節限定の楽しみ方。
訪問情報
- アクセス
- JR富山駅から南へ徒歩約10分、 または市内電車 (富山地方鉄道市内軌道線) で「国際会議場前」電停下車徒歩3分。 北陸自動車道・富山ICから車で約15分、 駐車場は城址公園地下に有料あり。
- 所要時間
- 城址公園散策と模擬天守の博物館見学を合わせて1.5〜2時間が目安
- 予算目安
- 城址公園は無料、 富山市郷土博物館は大人210円程度 (2024年時点参考、 最新は公式サイト確認)。 富山駅から徒歩なら交通費0円、 食事込みで半日2,000-3,000円が目安。
周辺観光
城址公園から徒歩5分の富山市役所展望塔は無料で立山連峰を一望でき富山城を俯瞰する好スポット。 徒歩15分の「富山県美術館」と隣接する「富岩運河環水公園」はカフェと散歩道を備える人気エリア。 車30分で「岩瀬まちなみ」の北前船廻船問屋街、 電車30分で高岡城跡 (前田利長の終焉の地) も訪問可能。
詳しく知る
時間のある方向けの詳細情報。
年表
- 1543年
富山城築城
神保長職が家臣の水越勝重に命じて越中東部進出の拠点として富山城を築城。 神通川東岸の安住郷を選地とした。
- 1560年
上杉謙信の越中侵攻
椎名氏を支援する上杉謙信の攻撃を受け、 神保長職は富山城に火をかけ増山城へ逃亡。
- 1582年
佐々成政が城主就任
上杉方の急襲で神保長住が失脚した後、 織田家臣・佐々成政が富山城主となり大規模改修を実施。
- 1585年
富山の役と破却
羽柴秀吉が7万の大軍で富山城を包囲、 佐々成政は降伏。 秀吉自ら入城後に城を破却し越中を引上げた。
- 1605年頃
前田利長が再建・隠居入城
関ヶ原後、 加賀藩主となった前田利長が富山城を再建し金沢城から隠居城として移った。
- 1609年
大火で焼失
建物の主要部を大火で失い、 利長は新たに高岡城を築いて移った。 富山城には家臣津田義忠が城代として残った。
- 1639年
富山藩成立
加賀藩3代藩主前田利常が次男利次に10万石を分与し富山藩が成立。 富山前田氏が分家として独立した。
- 1659年
正式な居城化
加賀藩との領地交換で富山城周辺を自領とし、 富山城を富山藩の正式な居城とした。
- 1661年
本格修復
幕府の許しを得て富山城を本格修復し城下町も整備。 以後明治維新まで富山前田氏13代の居城となる。
- 1858年
飛越地震
飛越地震により本丸・二の丸・三の丸が破損、 石垣が崩れるなど大きな被害を受けた。
- 1871年
廃藩置県で廃城
廃藩置県により富山城は廃城となり、 翌年に建物が払い下げられ多くが解体された。
- 1945年8月
富山大空襲
富山大空襲で城址東南が爆撃中心点に設定され、 城下町と城址周辺は壊滅的被害を受けた。
- 1954年
模擬天守完成
富山産業大博覧会を機に鉄筋コンクリート造の模擬天守が完成し、 同年から富山市郷土博物館として開館。
- 2008年
千歳御門が里帰り
1849年築の千歳御門が廃城後の民間流出から買い戻され、 城址公園内へ移築復元された。
- 2017年
続日本100名城に選定
日本城郭協会が選定する続日本100名城 (No.134) に選ばれ、 城郭巡りの目的地として再評価された。
歴史をもっと深く
富山城は1543年 (天文12年)、 越中東部および新川郡への進出を企図した神保長職が家臣・水越勝重に命じて、 神通川東岸の安住郷に築かせたとされる。 ただし近年の発掘で室町時代前期の遺構が確認されており、 実際の創建はさらにさかのぼると考えられる。 戦国期の越中は守護畠山氏の支配が形骸化し、 西部の神保氏と東部の椎名氏が対立。 1560年 (永禄3年)、 椎名氏を支援する上杉謙信の侵攻を受け長職は富山城に火をかけ逃亡、 1562年 (永禄5年) に上杉氏に降伏した。 1578年 (天正6年)、 謙信急死を機に織田信長から援軍を得た神保長住が富山城に入城するが、 1582年 (天正10年) 上杉方の急襲で失脚、 替わって織田家臣・佐々成政が城主となり大規模改修を実施した。 1585年 (天正13年)、 羽柴秀吉率いる大軍に囲まれて成政は降伏 (富山の役)、 秀吉は富山城を破却し越中を引き上げた。 関ヶ原後、 加賀藩主となった前田利長は富山城を再建し1605年 (慶長10年) 頃から隠居城として使用したが、 1609年 (慶長14年) の大火で主要部を焼失、 高岡城を新たに築いて移った。 1639年 (寛永16年)、 加賀藩3代藩主前田利常が次男利次に10万石を分与し富山藩が成立。 1659年 (万治2年) に加賀藩との領地交換で富山城を居城とし、 1661年 (万治4年) 幕府の許可を得て本格修復、 以後富山前田氏13代が明治維新まで居城とした。 1858年 (安政5年) の飛越地震で本丸・二の丸が大破、 1871年 (明治4年) 廃藩置県により廃城となり建物は払い下げられた。 城址は1954年 (昭和29年) 富山産業大博覧会を機に模擬天守が建てられ、 同年富山市郷土博物館として開館した。
文化的背景と意義
富山城には浮城 (うきしろ)、安住城 (あずみじょう) という二つの呼び名がある。 浮城の名は神通川の流れを城の防御に取り込んだ縄張りに由来し、 水に浮かぶように見えた往時の姿を伝える。 安住城は築城地が「安住郷」と呼ばれていたことに由来するが、 富山城とは別城とする説もある。 城址は1954年に都市計画公園「富山城址公園」として開設され、 2017年 (平成29年) に続日本100名城 (日本城郭協会) に選定された (No.134)、 とやま城郭カードNo.16にも指定される。 江戸期の富山藩は加賀藩前田家の分家として10万石を領し、 「反魂丹」を代表とする売薬業を奨励、 「越中富山の薬売り」として全国に名を馳せ近世日本の医薬流通の中心地となった。 城下町の構造は今も富山市中心市街地の街路に痕跡を残し、 地域アイデンティティの核として機能している。 1945年 (昭和20年) 8月2日の富山大空襲では爆撃中心点が城址東南に設定され、 戦災復興のシンボルとしても重要な意味を持つ。
建築的詳細
富山城は平城 (ひらじろ) で、 神通川の旧流路を堀として活用した水城の典型例。 縄張りはほぼ方形の本丸の南面に二の丸を、 東西に出丸を置き、 さらに三の丸で囲む形状をとり、 浮城の異名を生んだ。 現存する遺構は本丸の南面と西側の一部の石垣、 内堀、 そして移築復元された千歳御門のみ。 石垣は野面積みと打込接ぎが混在し、 佐々成政期から前田家期にかけての複数次の改修の痕跡を伝える。 1954年に建てられた模擬天守は鉄筋コンクリート造の3層4階で、 史実の天守を再現したものではなく、 同時代の他城を参考にデザインされた「想像復元」。 設計図によれば実際には三層の天守は江戸初期の絵図でも記載がなく、 また発掘調査でも天守台跡となる礎石の痕跡はないため、 天守は築かれなかったと考えられている。 千歳御門は1849年 (嘉永2年) に第10代藩主前田利保が隠居所千歳御殿の正門として建造、 総欅造の三間薬医門で桁行6m梁間1.9m、 屋根は切妻造の赤瓦本瓦葺。 同形式の現存門は東大の赤門のみという格式の高い遺構である。