宇和島城
宇和島市 · JP
海に浮かぶ五角形の縄張、現存12天守に名を連ねる伊達家10万石の城
愛媛県宇和島市、標高74メートルの丘陵に築かれた藤堂高虎の傑作。寛文6年(1666年)に2代藩主伊達宗利が建て替えた独立式層塔型三重三階の天守が、太平の世の優美な意匠を今に伝える現存12天守の一基であり、別名鶴島城と呼ばれる。
ベストシーズン・ベストタイム
城山公園の桜と白漆喰天守の対比が最盛期、麓から本丸への登城道で花のトンネルを抜ける
★★★★★
原生林に近い城山の照葉樹が色づき、天守背後の緑に紅葉が点る独特の山城景観
★★★★☆
葉が落ちて石垣のラインが露わになる季節、藤堂高虎の縄張を観察するには最適
★★★☆☆
見どころ TOP 3
1.現存天守、寛文期の三重三階
壁に狭間や石落としを持たず、唐破風の玄関を備える太平の世の天守。高い敷居や障子戸の名残が江戸初期の古い意匠を留め、妻飾りには伊達家の九曜紋・宇和島笹・竪三つ引が並ぶ。
本丸南東の石段から見上げる構図、午後の斜光が白漆喰を引き立てる
2.薬医門最大級、上り立ち門
搦手道口に立つ薬医門で、国内現存する同形式では最大クラス。控柱の年代分析から1430-1530年伐採の栂材が判明し、藤堂高虎修築期まで遡る可能性を秘める希少な遺構である。
南登城口から正面を捉えると五平の鏡柱と古形式の貫が浮き立つ
3.藤堂高虎の五角形縄張
幕府の隠密が四方と誤認した五角形の外郭ラインは、攻め手に死角を生む空角の経始と称される。山頂本丸を中心に二ノ丸・帯曲輪・藤兵衛丸を散在させた中世風縄張りに近世枡形を併用した稀有な城跡。
城山公園案内図と現地縄張図を見比べてから天守台に上ると構造が腑に落ちる
物語・伝説
こんな人におすすめ
現地で知るべき豆知識
- 1.本丸広場の北東隅から見下ろすと、埋め立てられる前の海岸線の名残として宇和島港の水面が天守とともに視野に入り、海城だった往時を想像しやすい絶景ポイントになる場所である。
- 2.南側の上り立ち門ルートは観光客の大半が通らない静かな登城道で、薬医門と古い石段、季節ごとの樹影を独り占めできる。北登城口から登って南の上り立ち門へ下る周回コースが特におすすめ。
- 3.山里倉庫を改装した城山郷土館は無料公開で、寛文期天守の精巧な10分の1模型を間近で観察できる。万延元年(1860年)の大改修時に作られた現物の歴史的資料である。
訪問情報
- アクセス
- JR予讃線宇和島駅から徒歩約20分、または駅前バスで桑折町停留所下車徒歩5分。松山自動車道宇和島朝日インターから車で約10分、城山駐車場(有料)あり。
- 所要時間
- 天守と城山公園で約1時間30分、城山郷土館を含めて2時間
- 予算目安
- 天守入場料200円前後+宇和島駅からの往復+郷土料理鯛めしの昼食で2024年時点約3000円。最新の入場料・営業時間は宇和島市公式サイトで確認。
周辺観光
城下の天赦園は宇和島伊達家7代宗紀の隠居所跡の池泉回遊式庭園で徒歩約15分、隣接する伊達博物館では宇和島伊達家伝来の所蔵品が観覧できる。車で30分圏には西海国立公園の宇和海展望や、段畑が並ぶ遊子水荷浦の景勝地も広がる。
詳しく知る
時間のある方向けの詳細情報。
年表
- 941年
砦の構築
天慶4年、警固使橘遠保が藤原純友の乱鎮定の際にこの地に砦を構え、後の板島丸串城の前身となる。
- 1595年
藤堂高虎が入封
文禄4年、藤堂高虎が宇和郡7万石を拝領して板島丸串城に入城、新たな築城構想を始める。
- 1596年
本格築城開始
慶長元年、藤堂高虎が近世城郭としての宇和島城の築城工事を本格的に開始する。
- 1601年
築城工事ほぼ完了
慶長6年、板島丸串城改め近世城郭としての宇和島城の主要な築城工事が概ね完成する。
- 1604年
月見櫓の移築
慶長9年、藤堂高虎が河後森城の天守を宇和島城へ移築して月見櫓に転用、城郭の機能を拡張する。
- 1614年
伊達秀宗が入封
慶長19年、伊達政宗の長男庶子である秀宗が10万石で入封し、宇和島伊達家9代の幕開けとなる。
- 1617年
宇和島城と改称
元和3年、徳川秀忠から伏見城千畳敷御殿が贈られ三の丸に移築、この頃から宇和島城と呼ばれる。
- 1666年
現存天守が完成
寛文6年頃、2代藩主伊達宗利による全面改修で独立式層塔型三重三階の現在の天守が完成する。
- 1854年
安政の大地震
安政元年、安政大地震により天守と矢倉24棟が破損、4棟が倒壊して大規模修復の必要に迫られる。
- 1934年
天守が旧国宝に
昭和9年、天守と追手門が国宝保存法に基づき当時の国宝(現行重要文化財相当)に指定される。
- 1937年
国の史跡指定
昭和12年12月21日、宇和島城跡が国の史跡に指定され、管理団体は宇和島市となる。
- 1945年7月
空襲で追手門焼失
昭和20年7月12日、太平洋戦争末期の宇和島空襲により当時の国宝追手門が焼失する。
- 1950年
天守が重要文化財に
昭和25年、文化財保護法の施行に伴い天守が改めて重要文化財に指定される。
- 2006年
日本100名城選定
平成18年4月6日、宇和島城が日本100名城の83番に選定され、城郭観光の主要拠点に位置づけられる。
- 2016年
史跡追加指定
平成28年3月1日、作事所跡などが国の史跡宇和島城に追加指定され、保護範囲が拡張される。
歴史をもっと深く
宇和島城の起源は、天慶4年(941年)に警固使橘遠保が藤原純友の乱鎮定の際この地に砦を構えたことに遡る。室町期には西園寺家支流が宇和荘の代官として在地し、板島丸串城と呼ばれる中世城郭が築かれた。天正13年(1585年)の豊臣秀吉による四国討伐で伊予国は小早川隆景の所領となり、隆景の筑前転封後の天正15年(1587年)には戸田勝隆が大洲城に入って戸田与左衛門を板島丸串城の城代とした。文禄4年(1595年)に藤堂高虎が宇和郡7万石で入封し、慶長元年(1596年)から本格的な築城を開始、慶長6年(1601年)に近世城郭としての宇和島城がほぼ姿を整える。慶長5年(1600年)の関ヶ原での戦功で高虎は伊予半国20万石に加増され今治に転出、慶長9年(1604年)には河後森城の天守を月見櫓として移築した。慶長19年(1614年)に伊達政宗の長男庶子である秀宗が10万石で入封し、以後9代にわたり仙台伊達家の別家としての宇和島伊達家が城主となる。元和3年(1617年)に徳川秀忠から伏見城の千畳敷御殿が贈られて三の丸に移築されたころから、宇和島城の呼称が定着した。慶安2年(1649年)の大地震で石垣116間と長屏780間が破損し、寛文2年(1662年)から2代藩主宗利が天守を含む全面改修に着手、寛文6年頃(1666年)に現在の独立式層塔型三重三階の天守が完成、寛文11年(1671年)に総竣工した。安政元年(1854年)の安政大地震で天守と矢倉24棟が破損し、万延元年(1860年)に大規模修復が行われ、その際に10分の1の精巧な模型が作製された。明治4年(1871年)に城は兵部省所管となり、明治33年(1900年)から大正2年(1913年)の宇和島港改修で堀や三の丸石垣の大半が失われた。昭和9年(1934年)に天守と追手門が当時の国宝に指定されたが、昭和20年(1945年)7月12日の宇和島空襲で追手門が焼失。昭和24年(1949年)に伊達家が天守と城山を市に寄贈、昭和25年(1950年)の文化財保護法施行に伴い天守が重要文化財に再指定された。
文化的背景と意義
宇和島城は江戸時代を通じて存続した天守を持つ現存12天守の一基であり、四国では伊予松山城・丸亀城・高知城と並ぶ最重要城郭の一つに数えられる。昭和12年(1937年)に国の史跡に指定され、平成18年(2006年)には日本100名城の83番に選定された。別名鶴島城と呼ばれるのは、海に張り出した地形を空から見れば鶴の姿に見立てられたとの伝承による。城主は前期の藤堂高虎の合理的築城思想と、後期の伊達秀宗以降の伊達家の意匠が一基の城に重なる稀有な存在であり、宇和島伊達家からは幕末の名君伊達宗城も輩出して薩長土肥に先んじた近代化を試みた背景を持つ。現存天守は重要文化財として、上り立ち門と桑折氏武家長屋門は宇和島市指定有形文化財として保護され、城山公園は地元市民の桜の名所として今なお親しまれている。
建築的詳細
宇和島城は標高74メートル(80メートル説もある)の丘陵に築かれた梯郭式平山城で、本丸を中心に二ノ丸・帯曲輪・藤兵衛丸・代右衛門丸・長門丸・井戸丸・三ノ丸を山上から山麓へ散在させ、内堀の外に侍屋敷の外郭を廻らせる。外郭ラインが五角形となる縄張は藤堂高虎の独創で、空角の経始の伝説を生んだ。現存天守は独立式層塔型三重三階、初重平面は約6間四方、各重に千鳥破風と唐破風を配し、白漆喰総塗籠に長押形の意匠を加えた優美な外観をもつ。入り口には唐破風屋根の玄関を備え、廊下内側の障子戸や高い敷居など江戸初期の古意匠を残す。窓は縦格子付き五角形で、狭間や石落としを欠く一方、腰壁には鉄砲掛けが設けられ実戦用の機能も併存する。屋根瓦と妻飾りには九曜・宇和島笹・竪三つ引の伊達家紋三種が用いられ、城主家のアイデンティティを意匠に直接刻んでいる。上り立ち門は薬医門形式で、五平の鏡柱と冠木、瓜剥丸太の内冠木、二段の貫を備える古形式で国内現存薬医門最大クラスである。