安土城
近江八幡市 · JP
天下布武の象徴、信長が築き三年で消えた幻の天主、石垣のみが語り継ぐ国指定特別史跡
滋賀県近江八幡市の安土山に織田信長が1576年から築いた山城、五重六階の天主は石垣の上に聳える日本初の本格的天守として近世城郭の原点となったが、本能寺の変直後の動乱で焼失し、現在は壮大な石垣と天主台礎石が琵琶湖を望む特別史跡として今に伝わる。
ベストシーズン・ベストタイム
山麓から大手道沿いに桜が咲き、石垣と新緑のコントラストが安土山全体を彩る最盛期
★★★★★
天主台跡から見下ろす琵琶湖と紅葉、空気が澄み撮影と歴史散策に最適な季節
★★★★★
石段の登山が炎天下で過酷、早朝入山と水分補給必須、新緑は美しいが体力勝負
★★☆☆☆
見どころ TOP 3
1.天主台礎石、信長が暮らした山頂跡
高さ約32mの五重六階の天主が立っていた天主台跡。礎石は中央の心柱の1つだけが欠ける特異な配置で、宝塔が据えられていたとも推測される、信長が天守上層で日常生活した城郭史上唯一の遺構。
天主台南東の入口から礎石群全体を入れ、午前中の柔らかな順光で撮るのが定番
2.大手道、幅6m直線180mの壮麗な石段
山麓から本丸へ向かって直線で180m続く幅約6mの大手道。両脇には穴太衆が築いた総石垣の屋敷跡が並び、伝羽柴秀吉邸跡や伝前田利家邸跡が当時の家臣団の威容を今に伝える政治都市の遺構。
大手門跡から仰角で石段の長い遠近感を強調、晴天の朝が順光で映える
3.摠見寺三重塔、城内に現存する重文の堂塔
城郭中枢部に建立された摠見寺の現存遺構、室町期の三重塔。城内に堂塔伽藍を備えた寺院を持つのは全国唯一で、焼失を免れた重要文化財として、信長の宗教観と城郭観を結ぶ稀有な歴史遺産。
南西側の境内越しに塔全体を仰角で、 紅葉期は背景の木立と相性が良い
物語・伝説
こんな人におすすめ
現地で知るべき豆知識
- 1.山麓の入山受付から天主台跡まで約405段の石段が連続するため、 動きやすい靴と水必携。 標準で天主台往復に60-90分かかり、 摠見寺ルートを回ると100-120分が目安。 早朝の涼しい時間帯の入山が体力的に最も楽。
- 2.天主台跡から琵琶湖と西の湖を一望できる絶景ポイントは、 早朝の朝霧が立ち上る時間が最も幻想的。 西の湖側から日の出方向に向けたパノラマ撮影は秋冬の晴れた朝に当日勝負、 風が弱い日が好機。
- 3.天主の復元模型と障壁画レプリカは麓の「安土城天主信長の館」と「安土城考古博物館」で見学でき、 城跡訪問の前後に立ち寄ると遺構と当時の威容を脳内で重ねられる。 入山券との周遊割引もある。
訪問情報
- アクセス
- JR琵琶湖線安土駅から徒歩約25分または駅前レンタサイクルで約10分、 名神高速竜王ICから車で約20分。 城跡入山受付前に有料駐車場あり、 紅葉期は満車対策で早朝到着推奨。
- 所要時間
- 天主台往復で1.5時間、 摠見寺ルートと博物館見学も含めると半日
- 予算目安
- 入山料は大人700円前後 (2024年時点参考、 最新は公式サイトで確認)、 安土駅からの交通費と昼食込みで一人2500-3500円程度
周辺観光
観音寺城跡(六角氏の旧居城、 安土山の南東約3km)、 安土城考古博物館(出土品と復元模型を展示)、 安土城天主信長の館(復元天主5・6階を常設展示)、 沙沙貴神社(佐々木氏ゆかりの古社、 駅から徒歩圏)、 車で30分圏に近江八幡水郷と八幡山ロープウェイ、 比叡山延暦寺と彦根城も同日圏内
詳しく知る
時間のある方向けの詳細情報。
年表
- 1576年
築城開始
天正4年1月、 織田信長が総普請奉行に丹羽長秀を据えて安土山での築城に着手、 穴太衆が石垣築造を担当する
- 1579年5月
天主完成・信長入城
天正7年、 五重の天主が完成し信長が移り住む、 同年の安土宗論で浄土宗と日蓮宗の宗論を城内で裁定
- 1582年5月
家康饗応
天正10年5月15日、 明智光秀が饗応役となり徳川家康の接待を実施、 信長との関係悪化の伏線となる
- 1582年6月
本能寺の変と焼失
6月2日に本能寺の変で信長が自害、 山崎の戦いで光秀敗死後の6月15日頃に天主と本丸が焼失したと記録される
- 1585年
八幡山城築城で廃城
天正13年、 豊臣秀次が八幡山城を築城したことに伴い安土城は廃城となり、 二の丸も機能を失う
- 1918年
安土保勝会設立
大正7年、 地元有志により安土城跡の保存を目的とした安土保勝会が結成され近代の保存運動が始まる
- 1926年
史蹟指定
大正15年、 史蹟名勝天然紀念物保存法により安土城址が国の史蹟に指定され公的保護下に入る
- 1952年
特別史跡指定
昭和27年、 文化財保護法により特別史跡に昇格、 国家的価値が認定された城跡の最高位指定を受ける
- 1989-2009年
調査整備20年計画
平成元年から滋賀県による発掘調査と整備事業が20年にわたり実施され、 大手道・伝秀吉邸跡などが姿を現す
- 1992年
天主部分復元展示
セビリア万国博覧会に『天主指図』を基に復元した天主5階・6階部分が出展、 後に安土城天主信長の館で常設展示
- 1999年
清涼殿型本丸御殿発見
平成11年、 本丸跡から内裏清涼殿と同型の建物礎石が発見され、 天皇行幸を想定した造営説が補強される
- 2006年
日本100名城選定
平成18年4月6日、 公益財団法人日本城郭協会により日本100名城(51番)に選定された
- 2024年
本丸取付台の規模判明
令和6年12月、 滋賀県の令和の大調査で天主台東側の本丸取付台の建物が東西9.5m南北17.5mと判明
歴史をもっと深く
安土城の前身は近江守護六角氏が築いた観音寺城の支城とされ、 安土山に小規模な砦が置かれていた。 1576年(天正4年)1月、 織田信長は総奉行に丹羽長秀、 普請奉行に木村高重、 大工棟梁に岡部又右衛門、 縄張奉行に羽柴秀吉、 石奉行に西尾吉次・小沢六郎三郎・吉田平内・大西某、 瓦奉行に小川祐忠・堀部佐内・青山助一を任じて本格的築城を開始。 1579年(天正7年)5月、 望楼型五重六階地下一階で天主高さ約32mの完成した天主に信長が移り住んだ。 築城目的は岐阜城より京に近く北陸街道から京への要衝に位置することから、 越前・加賀の一向一揆と上杉謙信への備え、 そして天下布武を視覚的に体現することにあったと考えられている。 同1579年には信長が浄土宗と日蓮宗の宗論を城内で裁定した『安土宗論』が行われ、 政治と宗教の中心地としての性格を強めた。 1582年(天正10年)5月15日には明智光秀が饗応役となって徳川家康を接待し、 同29日に京都本能寺で信長が光秀の謀反により自害する本能寺の変が起こると、 留守居役の蒲生賢秀・氏郷父子は信長の妻子を本拠地日野城へ退避させ、 その後安土城は明智軍に占拠された。 山崎の戦いで光秀が敗れた直後、 天主と本丸周辺の建物が焼失したが、 焼失の原因については明智秀満放火説・織田信雄軍放火説・蒲生父子退避時の城下類焼説・野盗放火説・落雷説など諸説あり、 史料上の定説を見ない。 その後しばらく信長の嫡孫秀信が二の丸を中心に居城としたが、 1585年(天正13年)豊臣秀次の八幡山城築城に伴い廃城となった。 江戸期を通じて廃墟のまま放置されたが、 1918年(大正7年)に地元有志による『安土保勝会』が結成され保存運動が始まり、 1926年(大正15年)に史蹟、 1952年(昭和27年)に特別史跡へ昇格。 1989年(平成元年)から2009年(平成21年)までの『調査整備20年計画』で大手道・伝羽柴秀吉邸跡・伝前田利家邸跡・本丸御殿跡などの遺構が次々と明らかになり、 2024年(令和6年)12月には『令和の大調査』で本丸取付台の建物規模 (東西約9.5m、 南北約17.5m) が判明している。
文化的背景と意義
安土城は1952年(昭和27年)に文化財保護法により国の特別史跡に指定され、 2006年(平成18年)には日本100名城(51番)に選定されている。城跡は琵琶湖国定公園の第1種特別地域にも含まれ、 自然景観と歴史遺構の双方が保護される稀有な指定地。安土城の最大の文化的意義は、 石垣の上に大型天守を持つ初の本格的近世城郭として、 続く豊臣秀吉の大坂城・徳川家康の江戸城以下、 全国の近世城郭の手本となった点にある。総石垣の普請を担った穴太衆は、 その後彦根城・姫路城・熊本城など全国の主要城郭の石垣築造に携わり、 城下町と政治都市を兼ねた『城下町国家』の原型を安土に残した。本丸御殿が内裏の清涼殿と酷似した間取りを持つことから、 天皇行幸を想定した政治的意図も指摘され、 安土の語が冠された安土桃山時代の名称そのものが、 信長の城が日本史の転換点を象徴する存在であることを示している。映像作品では大河ドラマ『信長 KING OF ZIPANGU』『麒麟がくる』など信長を主役とする作品の多くで描かれ、 滋賀県は2026年(令和8年)の築城450年に向けて天主復元プロジェクト『令和の大調査』を進めている。
建築的詳細
安土城は安土山の山頂から山腹にかけて広がる典型的な山城で、 総石垣による普請が当時の城郭としては革命的だった。 中核の天主は望楼型五重六階地下一階建て、 高さ約32m。 最上階は金色に塗られ、 下階は朱色の八角堂となっており、 内部は黒漆塗りに狩野永徳ら狩野派絵師による華麗な障壁画で飾られた。 天主台礎石は中央の心柱に当たる1つだけが欠けており、 その位置には仏教の宝塔と舎利容器の壺が据えられていた可能性が、 発掘調査と『天守指図』から推測されている。 本丸御殿は『コ』の字型の3棟構成で、 礎石間隔7尺2寸 (約2.2m) は公家建築 (7尺) を上回り武家標準 (6尺5寸) を大きく超える長さで、 内裏の清涼殿を模した天皇行幸用施設だった可能性が指摘されている。 縄張りは山頂の本丸を中心に二の丸・三の丸が放射状に配され、 山麓から本丸までは大手門からの道が幅約6m・直線約180mで延びる。 城内には摠見寺の堂塔伽藍が建立され、 三重塔と仁王門が現存する。 石垣は穴太衆による野面積みを主体とし、 『信長公記』には推定112トンの『蛇石』と呼ばれる巨石を山頂まで引き上げた記録が残るが、 現在まで蛇石は発掘されていない。