赤穂城
赤穂市 · JP
忠臣蔵の舞台、変形輪郭式の海岸平城。47義士の物語が今も息づく播州赤穂
兵庫県赤穂市の海岸沿いに浅野長直が1648年から13年かけて築き上げた江戸の名城。元和偃武後の新規築城という稀な事例にして、稜堡風の変形輪郭式縄張と元禄赤穂事件の舞台、復元された二つの国名勝庭園を擁する日本100名城60番、瀬戸内塩の城下町に静かに佇む。
ベストシーズン・ベストタイム
二の丸庭園と本丸広場を囲む桜が一斉に開花、石垣との対比が美しい
★★★★★
赤穂義士祭の装束行列と天守台ライトアップで一年で最大の賑わいを見せる
★★★★★
本丸庭園の紅葉と石垣のコントラスト、義士祭前の静かな散策に最適
★★★★☆
瀬戸内の海風が抜ける夕暮れの城跡、二の丸庭園の蓮と新緑が爽やかに揺れる
★★★☆☆
見どころ TOP 3
1.再建された大手隅櫓と高麗門
1955年に古写真から復元された大手門と隅櫓は、城下から最初に出会う赤穂城の顔。白漆喰の城壁と桝形、堀に映る石垣のラインが整い、忠臣蔵巡礼の入口にふさわしい荘厳な構えを見せる必見ポイント。
外堀の南東角から朝の順光で隅櫓と高麗門を一枚に収められる
2.国名勝の本丸庭園と二の丸庭園
1990年と2010年代に発掘成果から復元された二つの庭園は、池泉を中心にした書院式と林泉式の対比が美しく、2002年に国の名勝に指定。植栽と石組のひとつひとつが江戸の景観を伝え、四季を通じて静謐な散策が楽しめる。
本丸庭園は池の西側、午後の斜光で水面の反射と石組を立体的に撮れる
3.本丸門と御殿の間取り復元
1996年復元の本丸門枡形をくぐると、発掘調査をもとに地表に示された本丸御殿の間取りが広がる。畳の縁取りで部屋割りが可視化され、藩主の暮らしぶりと天守台の質量感を同時に体験できる、城内随一の歴史空間。
天守台の上から本丸広場全体を見下ろすと御殿の間取りが俯瞰できる
物語・伝説
こんな人におすすめ
現地で知るべき豆知識
- 1.城跡内の散策は終日無料で実質24時間開放、早朝の人がいない時間帯に大手門から本丸天守台まで歩くと、復元された石垣と空堀が朝靄に浮かぶ往時の静けさを独占できる穴場ルート
- 2.12月14日の義士祭は人出が多く混雑必至だが、前日13日の前夜祭ライトアップ「光の天守閣」なら客足が落ち着き、5層の電飾天守台と石垣が織りなす幻想的な夜景をゆっくり鑑賞できる
- 3.城跡から徒歩10分の花岳寺には47義士の墓所と浅野家・森家の菩提が並び、徒歩圏内の旧赤穂上水道遺構公開地点もあわせて巡ると、忠臣蔵と近世城下町技術の両方を一日で掴める定番ルート
訪問情報
- アクセス
- JR西日本赤穂線播州赤穂駅から徒歩約15分。大阪駅から新快速で約1時間40分、姫路駅から赤穂線で約25分。山陽自動車道赤穂ICから車で約10分、城跡西側に無料駐車場あり。
- 所要時間
- 城跡のみ1時間半、大石神社と花岳寺を含めて半日3時間が目安
- 予算目安
- 城跡無料、大石神社宝物殿入館料は別途。鉄道往復+昼食で大阪起点6000-8000円程度を見込みたい
周辺観光
徒歩10分の花岳寺には47義士と浅野家・森家の墓所が並び、忠臣蔵巡礼の定番ルートを構成する。徒歩圏には旧赤穂上水道の遺構公開地点があり、日本三大上水道の一つの竹管・木桝を見学可能。車で15分の播州赤穂温泉では赤穂塩を生かした塩湯で泊まりがけ観光ができる。
詳しく知る
時間のある方向けの詳細情報。
年表
- 1600年
掻上城築城
関ヶ原の戦い後、姫路藩主池田輝政の弟長政が赤穂に入り、現在の本丸・二の丸とほぼ同位置に「掻上城」を築いた。これが赤穂城の前身。
- 1615年
赤穂藩立藩
池田政綱が3万5000石を与えられて入封し、赤穂藩が立藩。御殿が建てられ、城下町の整備が始まる。
- 1645年
浅野長直入封
前藩主池田輝興の正保赤穂事件による改易を受け、浅野長直が常陸笠間より5万3000石で赤穂に入封。本格築城を計画。
- 1648年
築城開始
幕府に築城願を提出した同年、近藤正純の縄張で築城に着手。元和偃武から30年以上後の稀な新規築城事例となる。
- 1652年
山鹿素行招聘
軍学者山鹿素行を赤穂に招き、7ヶ月滞在の間に二の丸周辺の縄張改修を助言。発掘でその痕跡が確認された。
- 1661年
赤穂城完成
13年の歳月をかけて完成。12の門、10の隅櫓、総延長2847メートルの曲輪を擁する近世城郭となるが、天守台のみで天守は建てられず。
- 1701年
松の廊下刃傷
藩主浅野長矩が江戸城松の廊下で吉良義央に斬りつけて即日切腹、赤穂浅野家は改易となる。城受け渡しの記録が幕府に残された。
- 1702年
元禄赤穂事件
12月14日、大石内蔵助以下47名が江戸吉良邸に討ち入り主君の仇を討つ。忠臣蔵の物語として後世に語り継がれる。
- 1706年
森家入封
森長直が備中西江原より2万石で入部。以後12代165年の長きに渡り森家が赤穂藩主として在封し、廃藩置県まで続く。
- 1862年
文久赤穂事件
尊王攘夷派の中下級武士13名が筆頭家老森主税を赤穂城内で斬殺。幕末動乱期の赤穂藩内紛が表面化した事件。
- 1873年
廃城令と破却
廃城令により城は売却・破却。1892年の千種川洪水時には堀の石垣石が護岸資材に転用され、城郭の損傷が進む。
- 1912年
大石神社竣工
1897年起工の大石神社が大町桂月らの反対を経て竣工。47義士を祭神とし、城跡西側に鎮座する忠臣蔵聖地となる。
- 1971年
国史跡指定
赤穂城跡が国の史跡に指定。1981年の旧制赤穂中学校(県立赤穂高校)移転を経て、本格的な復元整備の道が開かれた。
- 2002年
国名勝指定
1990年復元の本丸庭園と段階的に復元される二の丸庭園が「旧赤穂城庭園」として国の名勝に指定された。
- 2006年
日本100名城選定
財団法人日本城郭協会により日本100名城(60番)に選定。同年から赤穂青年会議所による天守台ライトアップが始まる。
歴史をもっと深く
赤穂城の歴史は15世紀の岡光広による「古城(大鷹城)」築城に遡るが、現在の城郭の直接の前身は、関ヶ原の戦い後の1600年(慶長5年)に姫路藩主池田輝政の弟長政が築いた「掻上城(かきあげじょう)」である。1615年(元和元年)に弟池田政綱が3万5000石を与えられて赤穂藩が立藩し、政綱の弟輝興へと家督が移ったが、1645年(正保2年)に輝興が乱心して正室と侍女らを殺害(正保赤穂事件)した咎で改易された。同年、浅野長直が常陸笠間より5万3000石で赤穂に入封し、本格的な近世城郭の築造に取り掛かる。長直は1648年(慶安元年)6月に幕府へ築城願を提出し、甲州流兵学者近藤正純の縄張で着工した。元和偃武(1615年)から30年以上を経た時代に新規築城された全国でも稀な事例である。1652年(承応元年)には軍学者山鹿素行を赤穂に招き、7ヶ月滞在した山鹿は二の丸周辺の設計に助言を与え、発掘調査では山鹿の助言が反映されたとされる遺構が確認されている。13年の歳月をかけて1661年(寛文元年)に完成し、12の門、10の隅櫓、総延長2847メートルの曲輪を擁する近世城郭となった。本丸には築城時に天守台が築かれたが、家格を示す台座としての位置づけが優先され、天守そのものは江戸時代を通じて建造されなかった。浅野家3代目長矩が1701年(元禄14年)3月、江戸城松の廊下で吉良義央に斬りつけて即日切腹となり、赤穂浅野家は改易、翌1702年12月14日に大石内蔵助以下47名による吉良邸討ち入り(元禄赤穂事件)が起こった。城は隣国の播磨龍野藩主脇坂安照の在番、永井直敬の入封(1702年)を経て、1706年(宝永3年)から廃藩置県までの森家12代165年の支配が続いた。1862年(文久2年)12月9日、尊王攘夷派の中下級武士13名が筆頭家老森主税を赤穂城内で斬殺する文久赤穂事件が発生した。1873年の廃城令で建物の多くが破却され、1892年の千種川洪水時には堀の石垣の石が護岸資材に転用された。1928年に本丸跡に旧制赤穂中学校が建設され、1971年に国の史跡指定、1981年の高校移転を経て1990年代から段階的な復元事業が進行している。
文化的背景と意義
赤穂城を語る上で最大の文化的意義は、1701-1702年の元禄赤穂事件、いわゆる忠臣蔵の舞台であることである。仇討ちを果たした47義士の物語は、事件直後から歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』(1748年初演)、浄瑠璃、講談、落語、明治以降は小説・映画・テレビドラマと、日本文学・芸能史における最も再演される題材として武士道、忠義、復讐の倫理を巡る日本人の集合的記憶を形作ってきた。城跡内の大石内蔵助邸長屋門は1923年(大正12年)に国の史跡に独立指定され、隣接の大石神社(1912年竣工)は47義士を祭神とする全国屈指の参拝地、徒歩圏の花岳寺には浅野家・森家・47義士の墓所が並び、現地は史実と物語が交わる稀有な歴史空間を構成する。一方、城郭史としては、元和偃武(1615年の大坂夏の陣終結)後に新規築造された近世城郭という稀少性、変形輪郭式の縄張に見られる稜堡風の「横矢掛かり」「横矢枡形」は、銃砲戦時代を見据えた西洋星形要塞の影響との比較で語られることもあり、日本築城技術の到達点の一例として注目される。1614-1616年完成の旧赤穂上水道は日本三大上水道の一つに数えられる説もあり、近世水道技術の先駆例として2003年の発掘で竹管・木桝が確認された。1971年国史跡、2002年旧赤穂城庭園が国の名勝、2006年日本100名城(60番)選定。
建築的詳細
赤穂城は、変形輪郭式の縄張を特徴とする海岸平城で、本丸を二の丸が同心円状に取り囲み、その北側に三の丸を梯郭式に配する独特の構成を取る。築城当初は南側まで海が入り込み、城内の桟橋から船で出航できる海岸城であった。縄張は甲州流兵学者近藤正純の設計で、銃砲戦時代を強く意識した稜堡風の「横矢掛かり」「横矢枡形」が外周各所に展開し、十字砲火による防御を可能にしている。1652年に招かれた山鹿素行の助言で二の丸周辺の設計が手直しされた。本丸には五重天守の建造を可能とする規模の天守台が築かれたが、天守そのものは家格表示の台座として機能するに留まり、江戸時代を通じて建てられなかった。10基の隅櫓、12基の門、総延長2847メートルの曲輪と石垣が往時の規模を伝え、近代の段階的復元によって大手門・大手隅櫓(1955年)、本丸門および同枡形・大手門枡形(1996年)、本丸厩口門(2001年)、本丸庭園(1990年)、西仕切門(2010年)と二つの庭園が現代に蘇った。本丸庭園は座主席から池泉を眺める書院式庭園、二の丸庭園は林泉式の散策庭園として復元されている。