小倉城
城内 · JP
唐造り天守と細川忠興の美意識、 北九州の街に映える九州の名城
福岡県北九州市の紫川河口に立つ小倉城は、 細川忠興が1602年から7年かけて築いた4重5階の唐造り天守を持つ平城。 最上階が下階より外にせり出す独特の意匠は当代の評判を呼び、 津山城や高松城の手本となった。 続日本100名城 (181番) 選定の北九州のシンボル。
ベストシーズン・ベストタイム
城内300本超の桜が満開、 夜桜見物期は天守閣前広場が22時まで開門で大盛況
★★★★★
新緑と紫川越しの天守、 観光客が落ち着き朝夕は涼しく散策に好適
★★★☆☆
お城まつりと竹あかりの幻想的なライトアップが圧巻、 紅葉と城の組合せが楽しめる
★★★★★
観光客が最も少なく天守を独占できる穴場期、 雪化粧した唐造り天守は神秘的
★★★☆☆
見どころ TOP 3
1.唐造り (南蛮造り) の独特な天守意匠
最上階の縁側が下階よりせり出す「唐造り」と呼ばれる独自意匠が特徴の天守。 4重5階・現代鉄筋復興だが、 1959年再建時に追加された千鳥破風・唐破風が均整を成す。 紫川越しに見上げる白壁と黒段の対比は北九州随一の城景観である。
紫川対岸のリバーウォーク北九州デッキから望遠で
2.本丸跡と忠興時代の石垣・畝堀
本丸は明治期に陸軍第12師団司令部が置かれ軍都の中心となった場所で、 野面積みの石垣が残る。 2004年調査で篠崎口の総構から忠興築城時の畝堀・堀障子が発見され、 細川流築城術の貴重な遺構として注目される。
本丸広場の南西角から天守と石垣を一枚に収める
3.小倉城庭園と松本清張記念館
1998年開館の小倉城庭園は小笠原家下屋敷跡に造られた池泉回遊式の大名庭園で、 書院から眺める池越しの天守が絶景。 隣接する松本清張記念館では北九州出身の文豪の書斎を実寸復元、 文学ファンには欠かせない散策スポットとして人気が高い。
庭園の書院縁側から池越しに天守を借景に
物語・伝説
こんな人におすすめ
現地で知るべき豆知識
- 1.「小倉城武将隊」は細川忠興・細川ガラシャ・宮本武蔵などに扮した17名のキャストが城内で演武・記念撮影に応じる人気イベントで、 土日祝に活動が集中する。 公式SNSで出陣スケジュールを事前確認すると効率的である
- 2.天守内には2019年リニューアルでエレベーターが新設され、 階段昇降が困難な方や子供連れでも最上階まで気軽に上れる。 階段経由と組合せれば各階の唐造り構造解説や体験型ジオラマも余裕を持って堪能できる
- 3.城北側のリバーウォーク北九州 (赤い建物) のデッキから紫川越しに城を見下ろす構図は地元写真家の定番アングル。 夕方の青ブルーアワーには城のライトアップと商業施設が組合った独特な近現代の城景観が撮れる
訪問情報
- アクセス
- JR小倉駅から徒歩約15分、 JR西小倉駅から徒歩約10分。 山陽新幹線停車駅で福岡市から約20分、 広島から約45分。 北九州都市高速大手町出入口から車で約5分。
- 所要時間
- 天守と本丸で1時間、 庭園・松本清張記念館を含めて2-3時間が目安。
- 予算目安
- 天守入場料 大人350円、 庭園300円、 松本清張記念館600円、 共通券700円。 (2024年時点)
周辺観光
城公園内に隣接の小倉城庭園・松本清張記念館は徒歩圏。 紫川対岸のリバーウォーク北九州は商業・劇場複合施設。 徒歩15分の旦過市場は明治以来の老舗商店街、 徒歩20分の魚町銀天街は日本初のアーケード商店街として知られる。 車30分で門司港レトロ地区も組合せ可。
詳しく知る
時間のある方向けの詳細情報。
年表
- 1569年
毛利氏築城
戦国大名毛利氏が大友氏に対抗するため小倉に城を築き、 高橋鑑種・毛利勝信らが歴代の居城とする
- 1587年
森勝信の入城
豊臣秀吉の九州平定で家臣の森勝信が6万石で入城、 後に秀吉の計らいで毛利の姓を賜る
- 1602年
細川忠興の大改修
関ヶ原の戦功で豊前39万9千石を得た細川忠興が7年かけて唐造り天守の城を築き始める
- 1632年
小笠原氏の入城
細川家が肥後熊本に移封となり、 譜代の小笠原忠真が播磨明石から15万石で入城して以後幕末まで居城
- 1837年
天守焼失
天保8年の失火で本丸御殿と天守が焼失、 天守は再建されず代用の御三階が建てられた
- 1866年
小倉戦争で自焼
第二次長州征討で長州藩の攻勢を前に小倉藩が自ら城を焼却して撤退、 藩主は熊本へ退避
- 1875年
陸軍駐屯
陸軍歩兵第14連隊と第12旅団本部が松の丸跡に置かれ、 北九州が軍都として歩み出す
- 1898年
第12師団司令部設置
陸軍第12師団司令部庁舎が本丸跡に建てられ、 1925年の久留米移転まで軍政の中枢を担う
- 1959年
天守外観復興
市民の熱意と6000万円の資金で鉄筋コンクリート構造の天守が再建、 戦災復興のシンボルとなる
- 2004年
畝堀発見
篠崎口の総構の調査で細川忠興時代の畝堀・堀障子が発見、 細川流築城術の貴重な遺構と判明
- 2017年
続日本100名城選定
日本城郭協会選定の続日本100名城181番に選定され、 公式スタンプラリー対象となる
- 2019年
全面リニューアル
8ヶ月の閉館を経て内部全面リニューアル、 エレベーター新設と「しろテラス」がオープン
歴史をもっと深く
小倉城の地は古来交通の要衝で、 文永年間 (1264-1274) には緒方惟重が居城したと伝わるが信頼性は低い。 確実な築城は1569年 (永禄12年)、 毛利氏が大友氏に対抗するため小倉に城を築いたことに始まる。 1587年 (天正15年) に豊臣秀吉の九州平定により、 秀吉家臣の森勝信 (後に毛利の姓を賜る) が6万石で入城した。 1600年 (慶長5年) 関ヶ原の戦いで西軍に付いた毛利勝信は改易され、 戦功のあった細川忠興が豊前39万9千石で入封。 当初は黒田氏旧居城の中津城に入ったが、 1602年 (慶長7年) から7年をかけて毛利氏の小倉城を全面改築し、 1609年 (慶長14年) に4重5階の大天守と1重小天守の連結式層塔型天守を完成させた。 忠興は当代一流の茶人・文化人で、 その美意識から最上階の縁側を下階より外にせり出させる「唐造り」という独特な意匠を採用、 視察が訪れるほど評判を呼んだ。 同時期に紫川を境に城下町を東西に二分し、 西を侍町・東を町人町とする整備も行われた。 1632年 (寛永9年) に細川家が肥後熊本へ54万石で移封となり、 譜代の小笠原忠真が播磨明石から15万石で入城。 以後幕末まで約230年間、 小笠原氏が居城とした。 1837年 (天保8年) の失火で本丸御殿と天守を焼失、 天守は再建されず代用の「御三階」が建てられた。 1866年 (慶応2年) 第二次長州征討において小倉藩は長州藩の攻勢の前に撤退を決断し、 8月1日に自ら城を焼却して藩主を熊本に退避させた。 明治期には1875年に陸軍歩兵第14連隊と第12旅団本部が、 1898年に第12師団司令部が本丸跡に置かれ、 軍都・北九州の中心となった。 1959年 (昭和34年) に市民の熱意と6000万円の資金で鉄筋コンクリート構造による外観復興天守が完成。 ただし設計者藤岡通夫の当初案には無かった大入母屋破風・千鳥破風・唐破風が地元商工会の要望で追加され、 史実とは異なる外観となった。 2007年に屋根瓦9万枚の全面葺替え、 2017年に続日本100名城選定、 2019年に内部全面リニューアルとエレベーター新設、 同時に「しろテラス」観光案内施設がオープンした。
文化的背景と意義
小倉城は文化財には指定されていないが、 続日本100名城 (181番) として歴史的価値が公認される城郭である。 別名「勝山城」「勝野城」「指月城」「湧金城」「鯉ノ城」と多くの異称を持ち、 紫川河口の海城として豊臣・徳川初期に九州入部した大名が好んだ築城様式を体現する。 細川忠興が採用した「唐造り (南蛮造り)」は最上階の縁側が下階よりせり出す独特の意匠で、 当時他に類を見ない構造として津山城天守・高松城天守の手本となった。 1959年の天守復興は戦後の北九州工業地帯における市民の精神的拠り所として大きな意味を持ち、 「破風付き観光天守」の論争を生みつつも地元の誇りとなった。 城下町は紫川による侍町・町人町の分断構造を今に残し、 松本清張・林芙美子・火野葦平など北九州ゆかりの文学者を生む土壌となった。 1998年開館の松本清張記念館は城公園内にあり、 推理小説の巨匠の書斎を実寸復元する貴重な文学施設である。 細川忠興・ガラシャ夫人・宮本武蔵に扮する「小倉城武将隊」は地元観光の人気アイコンで、 観光振興と歴史教育の両面で機能している。
建築的詳細
小倉城は本丸を中心に南に松丸、 北に北の丸、 周囲に二の丸・三の丸・外郭を配する梯郭式平城で、 東を流れる紫川を天然の堀として活用する総構えを採っていた。 忠興時代の天守は4重5階の大天守と1重の小天守を渡櫓で結ぶ連結式層塔型天守で、 1階に天守としては珍しい湯殿を設け、 最上階は3間四方の御上段の周囲に縁側をめぐらせる構成だった。 最上階の戸板で覆った半間幅の内縁が下階よりせり出す独特の構造が「唐造り (南蛮造り)」で、 戸板は黒漆塗りで下階の白漆喰塗籠と対照を成し「黒段」と呼ばれた。 1837年焼失以前は最上層の入母屋破風以外に破風の無い簡素な外観が特徴で、 視察が訪れるほどの評判を呼んだ。 現在の天守は1959年に藤岡通夫の設計考証により鉄筋コンクリート構造で外観復興されたもので、 地元商工会の要望で大入母屋破風・千鳥破風・唐破風が追加されたため史実とは異なる装飾的な外観となっている。 石垣は野面積みで、 篠崎口の総構には2004年調査で発見された忠興時代の畝堀・堀障子が残り、 細川流築城術の貴重な遺構となっている。 1959年復興時の床面積は約2520平方メートル、 高さ約28.7メートルである。