金沢城
金沢市 · JP
加賀百万石・前田家14代の居城、 海鼠壁と鉛瓦が映える北陸随一の名城
石川県金沢市の小立野台地の先端に立つ金沢城は、 戦国期の尾山御坊から加賀百万石・前田家14代の本拠地へと姿を変えた梯郭式平山城。 白漆喰に黒い目地を入れた海鼠壁と冬の積雪に耐える鉛瓦の独特な意匠が、 北陸随一の優美な城郭美を今に伝える。
ベストシーズン・ベストタイム
桜400本と白い菱櫓のコラボが圧巻、 夜桜ライトアップでも幻想的な絶景となる
★★★★★
新緑と金沢百万石まつり(6月第1金土日)で前田利家入城を再現する迫力の祭礼
★★★★☆
兼六園と一体で楽しめる紅葉の名所、 玉泉院丸庭園のライトアップが情緒満点
★★★★★
雪化粧の海鼠壁と鉛瓦が水墨画のような風情、 兼六園の雪吊りもセットで観賞できる
★★★★☆
見どころ TOP 3
1.石川門(現存重文)の海鼠壁
1788年再建の石川門は1881年の大火を奇跡的に免れた現存重要文化財。 白漆喰のなまこ壁と鉛瓦屋根という金沢城独特の意匠が完全な姿で残り、 兼六園と金沢城をつなぐ象徴的な門となっている。 高麗門と櫓門による枡形虎口も必見である。
石川橋から石川門を見上げる構図が定番、 桜の時期が特に映える
2.菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓の連立復元
2001年に伝統工法で木造復元された菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓は、 平成の復元事業を象徴する建造物群。 釘を一本も使わない木組みと白漆喰仕上げで江戸期の姿を再現し、 内部見学では橋爪門続櫓の物資荷揚げ用吹き抜けまで体感できる。
三の丸広場から桜越しに連立全景を狙うのが春の絶景
3.鼠多門・鼠多門橋(2020年復元)
2020年7月に約140年ぶりに復元された鼠多門は、 玉泉院丸と金谷出丸をつなぐ2階建ての櫓門。 海鼠壁の目地に黒漆喰を使う日本でも他に例のない仕様で発掘調査から判明し、 鼠多門橋とともに長町武家屋敷へ直結する新たな観光動線を生み出した。
玉泉院丸庭園側から鼠多門橋を渡る構図で黒目地の海鼠壁を捉える
物語・伝説
こんな人におすすめ
現地で知るべき豆知識
- 1.石川門・三十間長屋・鶴丸倉庫の3棟は1881年の大火を免れた現存重要文化財で、 平成復元の建造物との対比を見比べると江戸期の本物の意匠と復元の精度差を発見できる
- 2.玉泉院丸庭園は2015年に再現されたばかりの隠れた絶景スポットで、 池泉回遊式の段差を活かした立体的造形は本丸より遥かに人が少なく、 朝一番の訪問が空気感まで独占できる狙い目である
- 3.金沢城公園は入園無料(菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓の有料エリアのみ大人320円)、 兼六園との共通券は大人500円で個別購入より大幅お得、 夜間ライトアップ(春秋の週末等)は無料で楽しめる
訪問情報
- アクセス
- 北陸新幹線「金沢駅」から路線バス約10分の「兼六園下・金沢城」下車徒歩すぐ。 徒歩なら金沢駅から約25分。 東京から新幹線で約2時間30分、 大阪からサンダーバードで約2時間40分。
- 所要時間
- 金沢城公園のみで1.5時間、 兼六園と合わせて半日が目安。
- 予算目安
- 公園入園無料、 菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓 大人320円。 兼六園との共通券 大人500円。 (2024年時点)
周辺観光
兼六園(徒歩すぐ・日本三名園)、 ひがし茶屋街(徒歩20分・伝建地区)、 21世紀美術館(徒歩10分・現代アート)、 長町武家屋敷跡(徒歩15分・鼠多門経由)、 近江町市場(徒歩15分・北陸グルメ)など、 城を中心に金沢の主要観光スポットがコンパクトに集積する。
詳しく知る
時間のある方向けの詳細情報。
年表
- 1546年
尾山御坊建立
加賀一向一揆が浄土真宗の寺院として尾山御坊(金沢御堂)を建立、 加賀支配の拠点となる
- 1580年
佐久間盛政が築城
織田信長の命を受けた佐久間盛政が尾山御坊を攻め落とし、 金沢城と改称して居城とした
- 1583年
前田利家入城
賤ヶ岳の戦いの後、 前田利家が4月28日に入城し尾山城と改称、 加賀百万石の歴史が幕を開ける
- 1592年
前田利長の大改修
子の前田利長が朝鮮出兵の経験を踏まえ大改修、 5重6階の天守と石垣・百間堀を整備
- 1602年
天守焼失
10月30日に落雷で天守が焼失、 江戸幕府との緊張関係から再建されず三階櫓に代替された
- 1631年
寛永の大火
寛永8年の大火で大規模焼失、 翌年に辰巳用水が城内に引かれ二の丸御殿が藩主居所となる
- 1759年
宝暦の大火
宝暦9年に城下を巻き込む大火に見舞われ、 城も再び大きな被害を受けた
- 1873年
廃城令
明治6年に廃城令で陸軍省財産となり、 1875年から陸軍歩兵第7連隊が置かれた
- 1881年
大火で大半焼失
1月10日の歩兵第7連隊兵舎からの大火で石川門・三十間長屋・鶴丸倉庫以外を全焼失
- 1949年
金沢大学が設置
5月31日に戦後新設された金沢大学の丸の内キャンパスが城跡に置かれ1995年まで存続
- 1996年
金沢城址公園整備開始
石川県が国から取得し金沢城址公園として整備を開始、 平成の復元事業が始動した
- 2001年
菱櫓等の木造復元
第1期復元事業として菱櫓・橋爪門続櫓・五十間長屋が伝統工法で木造復元され公園化
- 2008年
国の史跡指定
金沢城跡として国の史跡に指定、 2006年の日本100名城選定と合わせ国家的文化財として確立
- 2020年
鼠多門復元
鼠多門・鼠多門橋が約140年ぶりに木造復元、 長町武家屋敷との新観光動線が誕生した
- 2025年
二の丸御殿復元着工
3月9日に二の丸御殿表向の復元工事に着工、 「平成の築城」と呼ばれる事業の最終段階へ
歴史をもっと深く
金沢城の歴史は天文15年(1546年・室町時代後期)、 加賀一向一揆が浄土真宗の寺院として尾山御坊(金沢御堂)を建立したことに始まる。 大坂石山本願寺と同じく石垣を巡らした要塞寺院で、 加賀の支配権を得た本願寺の拠点となった。 天正8年(1580年)、 織田信長の命を受けた佐久間盛政が尾山御坊を攻め落とし、 同年中に金沢城と改称して居城とした。 天正11年(1583年・安土桃山時代)、 賤ヶ岳の戦いで盛政が羽柴秀吉に討たれた後、 前田利家が秀吉から加増を受けて4月28日に入城し尾山城と改称した。 天正15年(1587年)、 バテレン追放令により除封されたキリシタン大名・高山右近が利家に招かれて城の大改造を行い、 この頃再び金沢城に改称された。 文禄元年(1592年)、 子の前田利長が朝鮮出兵の経験を踏まえてさらなる大改修を行い、 石垣と百間堀を築き望楼型5重6階の天守と櫓を建て並べた。 慶長7年(1602年)10月30日、 天守が落雷で焼失し以後再建されなかった。 これは加賀藩が江戸幕府と緊張関係にあり大名の象徴である天守を再建しづらかったためで、 代わりに三階櫓が建てられた。 寛永8年(1631年)の寛永の大火で大規模焼失を受け、 寛永9年(1632年)には板屋兵四郎の設計で辰巳用水が城内に引かれた。 江戸時代を通じて前田氏14代の居城として加賀百万石を統治し、 宝暦9年(1759年)の宝暦の大火、 文化5年(1808年)の二の丸火災など何度も大火に見舞われた。 明治6年(1873年)、 廃城令で陸軍省財産となり、 明治14年(1881年)1月10日の歩兵第7連隊兵舎からの大火で石川門・三十間長屋・鶴丸倉庫の3棟以外を全焼失。 1898年からは陸軍第9師団司令部、 戦後は1949年から1995年まで金沢大学丸の内キャンパスが置かれた。 1996年に石川県が国から取得して金沢城址公園として整備を開始、 2001年に菱櫓・橋爪門続櫓・五十間長屋を木造復元、 2008年に国の史跡指定、 2010年に河北門、 2015年に橋爪門と玉泉院丸庭園、 2020年に鼠多門・鼠多門橋を復元した。 2024年1月1日の能登半島地震で石垣27か所が被災したが2025年3月9日に二の丸御殿復元工事に着工し、 「平成の築城」と呼ばれる復元事業はなお続いている。
文化的背景と意義
金沢城は江戸時代に加賀百万石・前田家14代の居城として加賀・能登・越中3国を統治した拠点であり、 外様大名最大の石高を誇る前田家の文化的威信を体現する城郭である。 現存する石川門・三十間長屋・鶴丸倉庫の3棟は国の重要文化財に指定され、 城跡全体は2008年に国の史跡となった。 2006年には日本100名城に選定。 異称の「金沢城」は、 もともと小立野台地の先端を「山尾(尾山)」と呼んでいた地名に由来し、 佐久間盛政が一向一揆の印象を払拭する命名を行ったが、 前田利家が一時「尾山城」に戻すも金沢の地名が広く知られていたため定着しなかった。 隣接する兼六園は加賀藩4代藩主・前田綱紀が金沢城の付属庭園「蓮池庭」として作らせたもので、 城と庭園は一体の文化的景観として捉えられる。 加賀藩は寛永の大火後に城下町を防衛拠点として整備し、 妙立寺(忍者寺)のような特殊建築群を生んだ。 2006年に石川県と金沢市が「城下町金沢の文化遺産群と文化的景観」として世界遺産暫定一覧表への記載を共同提案したが継続審議となっている。 鉛瓦・海鼠壁・鼠多門の黒漆喰目地など、 金沢城の意匠は北陸という地域性と前田家の独自美意識を反映し、 日本の城郭文化の地域多様性を示す貴重な事例である。
建築的詳細
金沢城の縄張りは犀川と浅野川に挟まれた小立野台地の先端を活用した梯郭式の平山城で、 本丸・二の丸・三の丸・新丸・北の丸・玉泉院丸の6曲輪から構成される。 1602年の天守焼失後は再建されず、 三階櫓と二の丸御殿が城の中枢となった独特の構成を持つ。 建造物の最大の特徴は3層構造で、 (1)壁面は白漆喰の上に四角い瓦を斜めに貼り目地を白漆喰で埋める「海鼠壁(なまこかべ)」を採用し、 鼠多門のみは黒漆喰目地という他に類例のない仕様を持つ。 (2)屋根は冬の積雪に耐えるため軽量な鉛瓦を採用し、 有事には鉄砲弾の原材料へ転用可能な戦略性を兼ねた。 (3)櫓1重目や塀には唐破風・入母屋破風の出窓を設け装飾性を高めた。 石垣は野面積み・打込接ぎ・切込接ぎの3種が時代別に観察でき、 城内は「石垣の博物館」と呼ばれるほど多様な技法が共存する。 城外には東西内外計4本の惣構堀が掘られ、 後に多くは用水路に転用された。 兼六園内の山崎山は惣構外郭土塁の一部で、 その南側の池は水堀の名残である。 1632年に板屋兵四郎が設計した辰巳用水は約11kmの逆サイフォン式導水路で、 城内に飲料水と防火水を供給する近世土木技術の精華となっている。 平成・令和の復元事業では伝統工法を厳格に踏襲し、 釘を一本も使わない木組みと荒土壁・漆喰仕上げで江戸期の意匠を忠実に再現している。