広島城

基町 · JP

原爆を超えて甦った「鯉城」、 太田川デルタに毛利輝元が築いた近世平城の代表

広島市中区基町の太田川デルタに毛利輝元が1589年に築き始めた広島城は、 大坂城・松本城とともに日本三大平城に数えられる近世平城の傑作。 旧国宝の天守は1945年8月6日の原爆で倒壊するも、 1958年に外観復元され、 被爆復興の象徴として親しまれる「鯉城」である。

ベストシーズン・ベストタイム

3月下旬-4月上旬

内堀沿いと中央公園の桜が天守と織りなす絶景、 平和記念公園と合わせた周遊にも最適な季節

★★★★★

6月-8月

新緑の堀端散策と8月6日前後の平和記念行事を組合せられる節目の時期

★★★☆☆

11月中旬-下旬

縮景園の紅葉と城郭の落ち着いた風情が映える、 桜花期より静かに楽しめる穴場

★★★★☆

1月-2月

落葉後に石垣の構造が見やすくなり、 早朝の凛とした空気で天守を独占できる季節

★★★☆☆

見どころ TOP 3

  • 1.復元された大天守と歴史博物館

    5層5階・石垣含め約39mの大天守は、 1958年に鉄筋コンクリート造で外観復元され、 内部は広島の城下町文化を伝える歴史博物館として整備されている。 黒い下見板張りと最上階の高欄が安土桃山期の城郭意匠を今に伝える。

    内堀東岸からの斜め構図、 朝の順光と桜花期の組合せが最も映える

  • 2.原爆で失われた旧国宝天守の記憶

    1931年に旧国宝指定された築城期天守は、 1945年8月6日の原爆爆風で下層柱が破壊され構造体が倒壊した。 城内の被爆遺構や被爆樹木(ユーカリ・クロガネモチ等)と合わせて、 戦争と復興の記憶装置として今に伝わる必見の場所である。

    被爆前後の写真パネルがある天守内展示室で、 時代対比の構図を意識して撮影

  • 3.1994年木造復元の二の丸建造物群

    二の丸の表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓は1994年に松材を主体とする伝統工法で木造復元された、 戦後文化財復元の好例である。 1958年の外観復元天守と並ぶことで、 半世紀で進化した「復元」の概念差をひとつの城内で体感できる。

    二の丸復元御門の枠越しに大天守を縦構図で切り取るのが定番

物語・伝説

1589年、 中国地方9か国112万石の太守となった毛利輝元が、 山城の吉田郡山城から太田川デルタの「五箇村」へ拠点を移して築いた広島城。 縄張は聚楽第、 構造は大坂城に範を取ったとされる。 1619年から浅野氏12代約250年の居城となり、 江戸期を通じて一度も実戦の舞台にならなかった稀有な城である。 1894年の日清戦争では本丸に大本営が置かれ、 広島は約7か月間「臨時首都」として機能した。 1945年8月6日、 旧国宝天守は原爆爆風で倒壊。 13年後の1958年、 復興の象徴として鉄筋コンクリート造で外観復元され、 「鯉城」は被爆都市の不死鳥として甦った。

こんな人におすすめ

近世初期平城の縄張りと外観復元天守を体感したい歴史マニア、 原爆被災と復興の記憶を建造物を通して学びたい平和学習層、 平和記念公園・原爆ドームと組合せた半日周遊を楽しみたい初訪日観光客、 桜と城の組合せを狙う写真愛好家にもおすすめである。

現地で知るべき豆知識

  • 1.本丸南端の中国軍管区司令部跡(地下防空作戦室)は無料で見学でき、 1945年8月6日の被爆直後にここから「広島壊滅」を最初に外部に伝えた通信兵の話が現地解説で読める歴史ファン必見の場所である
  • 2.天守北側の被爆樹木3本(ユーカリ・クロガネモチ・マルバヤナギ)は爆心地から約900mの至近距離で被爆しながら今も生きており、 樹皮に被爆痕の凹凸が残る木の幹を間近で観察できる
  • 3.平和記念公園・原爆ドームへは徒歩約20分か路面電車約5分の好アクセスで、 朝に城跡・午後に平和記念施設を回る半日周遊が定番。 路面電車1日券520円が交通費を大幅節約できる(2024年時点参考)

訪問情報

アクセス
JR広島駅から路面電車・バスで約10分、 紙屋町東/紙屋町西電停で下車徒歩約15分。 新幹線のぞみ停車駅で東京から約4時間、 大阪から約1時間半でアクセス可能である。
所要時間
本丸・二の丸の散策と天守歴史博物館で約2時間、 縮景園や平和記念公園と組合せて半日が目安。
予算目安
天守入館料 大人370円・小中高生180円程度。 本丸・二の丸の散策は無料。 最新情報は公式サイトで確認(2024年時点参考)。

周辺観光

徒歩約20分または路面電車で約5分の広島平和記念公園・原爆ドーム(1996年世界遺産)は半日周遊の定番。 城南東に隣接する縮景園は浅野家別邸の池泉回遊式庭園で国の名勝指定、 隣接する広島県立美術館と一体的に楽しめる。 ひろしま美術館は印象派コレクションで知られる。

詳しく知る

時間のある方向けの詳細情報。

年表

  1. 1589年

    築城開始

    毛利輝元が太田川デルタの五箇村で鍬入れ式を行い、 穂井田元清・二宮就辰を普請奉行に築城を開始する

  2. 1599年

    全工事完了

    築城開始から10年、 三重堀と本丸・二の丸・三の丸を備えた近世城郭が完成し「広島」の地名も定着する

  3. 1600年

    福島正則入城

    関ヶ原で西軍に属した毛利氏が減封され広島を去り、 福島正則が城主に。 外郭・城下町の本格整備を進める

  4. 1619年

    浅野氏12代の始まり

    福島正則が洪水修復の無届け改築で改易され、 浅野長晟入城。 明治維新まで約250年浅野氏12代の居城となる

  5. 1864年

    第一次長州征討の本営

    徳川慶勝総督の幕府軍本営が広島城に置かれ、 慶勝撮影による幕末の城写真が現存(徳川林政史研究所蔵)

  6. 1894年

    広島大本営の設置

    日清戦争勃発に伴い本丸に広島大本営が設置され、 明治天皇が行幸。 約7か月間広島が臨時首都として機能

  7. 1928年

    天守の一般開放

    それまで軍用地で立入禁止だった天守が一般公開され、 1931年1月の旧国宝指定へとつながっていく

  8. 1945年8月6日

    原爆投下による倒壊

    午前8時15分の原爆爆風で天守と現存建造物群が倒壊・焼失。 2010年の調査で下層柱破壊が原因と判明する

  9. 1958年

    天守外観復元

    原爆復興の象徴として大天守が鉄筋コンクリート造で外観復元され、 内部は歴史博物館として一般公開される

  10. 1994年

    二の丸木造復元

    二の丸の表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓が松材を主体とする伝統工法で木造復元、 戦後文化財復元の好例となる

  11. 2006年

    日本100名城選定

    日本城郭協会の日本100名城に選定。 番号73番として近世初期平城の代表的事例として評価される

歴史をもっと深く

広島城の歴史は1589年(天正17年)、 中国地方9か国112万石の太守となった毛利輝元が太田川河口デルタの「五箇村(五ヶ村)」を築城地に選定したことに始まる。 当時の毛利氏の居城は山城の吉田郡山城だったが、 戦国末期から近世への移行期に政務・商業の中枢として平野部への拠点移転が必要となった。 1588年に上洛し大坂城・聚楽第を見学した輝元は近世城郭の重要性を痛感し、 1589年4月15日に鍬入れ式を執行、 普請奉行は穂井田元清と二宮就辰が務めた。 1591年(天正19年)1月に輝元入城、 1599年(慶長4年)に全工事が完了した。 「広島」の名はこの頃に付けられ、 由来は毛利氏祖先・大江広元の「広」と築城地選定に貢献した福島元長の「島」を組合せたとも、 デルタの大きな島々に由来するとも言われる。 1600年の関ヶ原で西軍に属した毛利氏は減封され、 福島正則が城主となった。 福島氏期に三重堀と外郭・城下町が整備されたが、 1619年(元和5年)の洪水被害修復を武家諸法度違反として改易され、 浅野長晟が入城。 以降明治維新まで浅野氏12代約250年の居城となった。 1864年(元治元年)の第一次長州征討では幕府軍本営となるも、 戊辰戦争で広島藩は官軍に属したため戦渦を免れた。 つまり築城から廃藩置県まで約280年間、 一度も実戦の舞台にならない稀有な城だった。 明治期は本丸に広島県庁、 次いで陸軍鎮台が置かれ、 1888年に第五師団司令部が設置されて軍都広島の中心となった。 1894年(明治27年)日清戦争勃発で本丸に広島大本営が設置され、 明治天皇が行幸、 第7回帝国議会も広島で召集された。 約7か月間広島は臨時首都として機能している。 1928年(昭和3年)天守の一般開放、 1931年(昭和6年)1月旧国宝指定。 太平洋戦争末期の1945年4月第二総軍司令部、 6月中国軍管区司令部の本営が置かれた。 1945年8月6日午前8時15分、 原爆爆風で天守と現存建造物群が倒壊・焼失。 倒壊機序は長らく爆風で吹飛んだとされたが、 2010年の新証拠で下層柱破壊による構造崩壊が示された。 1958年(昭和33年)、 原爆復興の象徴として鉄筋コンクリート造で天守が外観復元され、 内部は歴史博物館として整備された。 1994年(平成6年)には二の丸の表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓が松材を主体とする伝統工法で木造復元され、 戦後文化財復元史の重要な実例となった。

文化的背景と意義

広島城は大坂城・岡山城と並ぶ近世初期平城の代表例で、 松本城・元離宮二条城とともに日本三大平城に数えられる。 1931年に旧国宝指定された築城期天守の外壁下見板張りや最上階高欄は、 安土桃山期の城郭意匠を伝える稀有な実例として評価された。 異称「鯉城(りじょう)」は、 一帯の旧地名「己斐浦(こいのうら)」が延喜式以前に「鯉」と表記された説、 堀に鯉が多い説、 天守が黒い説など複数の由来がある。 江戸後期の藩儒・頼聿庵の漢詩『遊東郊』が現存最古の鯉城用例とされる。 プロ野球「広島東洋カープ」(英語で鯉=Carp)のチーム名もこの異称に由来している。 1945年の原爆被災と1958年の外観復元、 1994年の木造復元という3段階の歴史は、 戦後日本の文化財「復元」概念の進化を一城内に体現する貴重な実例である。 城内の被爆樹木と中国軍管区司令部跡などの被爆遺構は、 城郭が戦争被災と平和記念都市広島のアイデンティティ形成に欠かせない記憶装置として機能していることを示している。 国の史跡指定範囲は本丸・二の丸跡の約12万平方メートル、 日本100名城にも選定されている。

建築的詳細

広島城の縄張りは輪郭式の典型例で、 本丸を中心に二の丸・三の丸・外郭が同心状に配置され、 内堀・中堀・外堀の三重堀と西側の太田川本流(現在の本川)が天然の防御線を形成していた。 中堀と外堀は明治末期から大正初期に埋め立てられ、 現在は本丸・二の丸を囲む内堀のみが残る。 築城期の天守は望楼型5重5階の大天守と望楼型3重3階の小天守2基からなる連立式天守群で、 櫓88基が立ち並ぶ大規模構成であった。 1958年復元の現天守は大天守のみで、 鉄筋コンクリート造5階建て、 石垣上12.4mの基礎含めて約39mの高さを誇る。 外観は築城期の意匠を忠実に再現し、 黒い下見板張り壁面と最上階の高欄が特徴で、 連立式構成の3小天守は復元されていない。 1994年復元の二の丸建造物群は表御門と平櫓・多聞櫓・太鼓櫓の4棟で、 古写真と発掘調査をもとに松材を主体とする伝統工法で再建された。 石垣は野面積みを基本とし、 福島氏期の打込接ぎ、 浅野氏期の切込接ぎが時代別に観察できる。 本丸南端の中国軍管区司令部跡は1945年6月にシェルター化された地下防空作戦室で、 当時の鉄筋コンクリート構造体がそのまま残る稀有な戦争遺構である。

外部リンク

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