弘前城
下白銀町 · JP
東北唯一の現存12天守と桜2600本が舞う、白漆喰の御三階櫓
青森県弘前市下白銀町に建つ弘前城は、 江戸時代に津軽氏4万7千石の藩庁として築かれた梯郭式平山城。 1810年再建の御三階櫓 (天守) は東北地方唯一の現存天守で、 公園内に植えられた約2600本の桜と相まって日本屈指の花見名所として国の重要文化財・史跡に指定されている。
ベストシーズン・ベストタイム
約2600本の桜と天守のコラボに加え、 外濠の花筏とぼんぼり夜桜が東北最盛期の絶景となる
★★★★★
本丸の蓮池と緑陰、 二の丸の新緑越しに望む白漆喰天守が清涼感を演出する穴場の好機
★★★☆☆
「弘前城菊と紅葉まつり」で1000本の紅葉と菊人形が天守と共演する津軽の秋の風物詩
★★★★☆
「弘前城雪燈籠まつり」では雪燈籠300基とミニかまくら150基が天守を幻想的に照らす
★★★★☆
見どころ TOP 3
1.東北唯一の現存12天守(御三階櫓)
1810年に9代藩主津軽寧親が幕府の許可を得て辰巳櫓を改修する名目で建てた層塔型3重3階の天守は、 高さ約14.4メートルと現存三重天守中最小。 寒冷地仕様の銅瓦と東南面のみ華麗に飾る「二方正面」が独特である。
本丸南東隅の天守前広場から東面の千鳥破風を入れた縦構図がおすすめ
2.外濠に映る夜桜と日本三大桜の名所
1903年から植樹された約2600本の桜は西濠・外濠に枝垂れ、 「日本さくら名所100選」と日本三大桜の名所に数えられる。 4月下旬の桜まつりではぼんぼり200基が灯り、 濠の水面を埋める「花筏」が東北の春を象徴する。
西濠の春陽橋から夜のぼんぼりと枝垂れ桜を水鏡に映す広角構図
3.現存3隅櫓と5城門の重要文化財群
本丸天守に加え、 二の丸に丑寅・辰巳・未申の3隅櫓、 追手門と東門、 二の丸南内門・東内門、 北の郭北門の計5門が現存する。 計9棟が重要文化財に指定され、 これほど櫓・門が揃って残る城は全国でも稀である。
二の丸南西の未申櫓は周囲に高木がなく、 全景を斜め下から入れやすい
物語・伝説
こんな人におすすめ
現地で知るべき豆知識
- 1.2015年の天守曳屋工事で本丸石垣修理のため天守は本丸内側へ仮移動中。 通常は石垣上に建つ天守を地上に下ろした珍しい姿を体験できる稀少な期間で、 2025年以降に元位置へ戻る予定となっている
- 2.南内門近くの「弘前城情報館」では曳屋工事の記録映像と現存12天守の比較模型を無料で見学でき、 城内散策前の予習に最適。 開館時間が短いため朝9時の入園直後に立ち寄るのが効率的である
- 3.本丸有料区域 (大人320円) は4月-11月のみで、 12月-3月は無料開放となる。 雪燈籠まつり期間中の夕方ライトアップは無料で雪化粧の天守と濠を撮影できる、 知る人ぞ知る冬の絶景タイミングである
訪問情報
- アクセス
- JR弘前駅から路線バス「市役所前公園入口」下車徒歩約4分(10分)、 または徒歩約25分。 東京駅から東北新幹線「はやぶさ」で新青森まで約3時間、 奥羽本線特急に乗換え弘前まで約30分。
- 所要時間
- 本丸と二の丸で2時間、 公園と周辺植物園含め半日が目安。
- 予算目安
- 本丸・北の郭有料区域 大人320円・小中学生100円。 植物園共通券 大人520円。 (2024年時点、 最新は公式サイトで確認)
周辺観光
公園内には植物園と弘前城情報館があり、 東門近くには津軽為信の銅像が建つ弘前文化センター、 城南東の禅林街には33の寺院が連なる「長勝寺構」(国史跡)が現存する。 弘前駅前のレトロ建築群、 藤田記念庭園、 旧弘前市立図書館もすべて徒歩圏内にある。
詳しく知る
時間のある方向けの詳細情報。
年表
- 1590年
津軽独立
南部氏家臣の大浦為信が小田原征伐で豊臣秀吉から4万5千石の朱印状を得て独立、 大浦から津軽に改姓する
- 1600年
弘前藩成立
関ヶ原の戦いで東軍に付いた津軽為信は徳川家康から2千石を加増され、 4万7千石の弘前藩が成立する
- 1610-1611年
鷹岡城築城
為信没後、 2代信枚が築城を再開し1年1か月の突貫工事で鷹岡城を完成、 5層天守を本丸南西隅に擁した
- 1627年
天守焼失
落雷で5層天守内の火薬に引火し大爆発、 本丸御殿諸櫓もろとも焼失、 以後200年近く天守不在となる
- 1628年
「弘前」改称
鷹岡を信枚の帰依する天海大僧正の命名で「弘前」に改称、 城名も鷹岡城から弘前城へ変更された
- 1810-1811年
御三階櫓建造
9代藩主津軽寧親が幕府許可を得て、 本丸南東隅辰巳櫓を改修する名目で現在の3層3階天守を建てた
- 1873年
廃城令
明治政府の廃城令で陸軍省管轄となるも存城扱いで主要建造物は残存、 1884年に本丸御殿等が取壊された
- 1895年
弘前公園開園
旧藩主津軽家の請願を受け、 弘前市の管理で弘前公園として一般開放、 1903年から桜の植樹が始まる
- 1937-1953年
国宝・重文指定
1937年に天守等8棟が旧国宝、 1950年の文化財保護法で重要文化財、 1953年に三の丸東門も追加指定
- 1952年
国史跡指定
城跡が国の史跡に指定、 1985年に堀越城跡、 2002年に種里城跡を加え「津軽氏城跡」と総称された
- 2006年
日本100名城選定
日本城郭協会の日本100名城4番に選定、 2011年には築城400年祭が一年を通して開催された
- 2015年-
天守曳屋工事
本丸石垣の膨らみと天守の傾きを修理するため、 天守を曳屋で仮天守台へ移動、 2025年以降の復位を予定
歴史をもっと深く
弘前城の起源は1590年(天正18年)、 南部氏家臣だった大浦為信が小田原征伐の際に豊臣秀吉から4万5千石の所領安堵を得て独立大名となり、 「津軽」と改姓したことに遡る。 1594年(文禄3年)に堀越城へ本拠を移したが軍事に不向きで、 1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで東軍に付き2千石を加増され4万7千石の弘前藩が成立した。 為信は1603年に高岡 (現在地) への町屋建設を命じたが築城には着手せず1607年(慶長12年)に京都で没した。 2代藩主津軽信枚が1610年(慶長14年)から築城を再開、 堀越城と大浦城の建材を流用する突貫工事で翌1611年(慶長16年)に鷹岡城が完成、 本丸南西隅に5層の天守を擁した。 しかし1627年(寛永4年)に落雷で天守内の火薬に引火し大爆発、 本丸御殿諸櫓もろとも焼失する大惨事となった。 翌1628年(寛永5年)に城下を信枚の帰依する天海大僧正の命名で「弘前」と改称、 城名も弘前城となる。 その後200年近く天守不在のまま、 1810年(文化7年)に9代藩主津軽寧親がロシア船の津軽海峡往来などを名目に幕府の許可を得て、 本丸南東隅の辰巳櫓を改修する形で現在の3層3階御三階櫓を建造、 翌1811年(文化8年)に竣工した。 明治維新後の1871年(明治4年)に兵部省、 翌1872年に陸軍省の管轄となり、 1873年(明治6年)の廃城令でも存城扱いとなったが1884年(明治17年)に本丸御殿等が取り壊された。 旧藩主津軽承昭が公園化を考案し、 弘前市が出願して1895年(明治28年)に弘前公園として一般開放、 1903年(明治36年)以降に桜の植樹が始まる。 1908年(明治41年)には皇太子(後の大正天皇)が公園を「鷹揚園」と命名した。 1937年(昭和12年)に現存建造物8棟が旧国宝、 1950年(昭和25年)の文化財保護法施行により国の重要文化財に指定、 1953年に三の丸東門も追加指定された。 1952年(昭和27年)に城跡が国の史跡に、 1985年(昭和60年)に堀越城跡を含めて「津軽氏城跡」に名称変更、 2002年(平成14年)には種里城跡も追加された。 2006年(平成18年)に日本100名城4番に選定、 2011年(平成23年)には築城400年祭が開催され、 2015年から天守曳屋による本丸石垣修理工事が継続中である。
文化的背景と意義
弘前城は江戸時代に築かれた現存12天守の一つで、 関東以東で唯一・最北に位置する現存天守として全国の城郭ファンに知られる。 本丸天守、 二の丸の丑寅・辰巳・未申の3隅櫓、 三の丸追手門・東門、 二の丸南内門・東内門、 北の郭北門の計9棟が国の重要文化財に指定されており、 これだけ多くの櫓・門が揃って残る城は全国でも稀少である。 城跡は国の史跡「津軽氏城跡」(弘前城跡・堀越城跡・種里城跡の三城をまとめた指定で総面積約105万4千平方メートル)として保護され、 「日本さくら名所100選」「日本100名城」「日本さくらの名所10撰(三大桜名所)」など多数の選定を受ける。 司馬遼太郎は紀行文集『街道をゆく 北のまほろば』で弘前城を「日本七名城の一つ」と称えた。 異称の「鷹岡城」「高岡城」は築城時の地名に、 公園の別称「鷹揚園」は1908年の皇太子嘉仁親王の命名に由来する。 4月下旬から5月上旬の桜まつり、 10月下旬から11月上旬の菊と紅葉まつり、 2月上旬の雪燈籠まつりは「弘前四大まつり」のうち3つを占め、 津軽地方の年中行事として地域文化に深く根付いている。
建築的詳細
弘前城の縄張りは津軽平野に位置する梯郭式平山城で、 本丸・二の丸・三の丸・四の丸・北の郭・西の郭の6郭から構成され、 創建当初の総面積は約38万5200平方メートル(東西612メートル・南北947メートル)に及んだ。 現存天守(御三階櫓)は層塔型3重3階・高さ約14.4メートルで現存三重天守中最小、 もとは北側に多聞櫓を付属させた複合式だったが明治29年(1896年)頃に多聞櫓は破却され現在は独立式となっている。 外壁は白漆喰塗籠で、 窓と狭間の上下に長押形を施し、 寒冷地仕様として銅瓦を葺く特徴を持つ。 外側に面する東面と南面には1層目と2層目に大きな切妻出窓と狭間窓を設け、 千鳥破風で華麗に装飾する一方、 内側の西面と北面には破風を一切付けず連子窓を単調に並べる「二方正面」の意匠が独特である。 内部も通常の天守建築のような最高級材ではなく普通の櫓と同等の木材が用いられ、 床に敷居がなく当初から倉庫として利用されることを見込んだ簡素な構造となっている。 石垣は野面積みを主体に、 天守台直下の本丸石垣は江戸初期の打込接ぎで構築されており、 2015年から始まった本丸石垣修理工事で天守を仮天守台に移す「曳屋」が行われ、 工事完了予定の2025年以降に元位置へ戻される計画である。