原城

南島原市 · JP

島原の乱の終焉地、世界遺産に名を連ねる海上に浮かぶ殉教の城跡

長崎県南島原市の有明海を望む丘陵に築かれた原城跡。1637年の島原の乱で約3万7千人の一揆勢が籠城し、幕府軍との総攻撃で全滅した悲劇の舞台。「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として2018年に世界遺産登録された海城である。

ベストシーズン・ベストタイム

3月下旬-5月上旬

新緑と菜の花が石垣を彩り、晴天時は雲仙と天草を一望できる撮影の最盛期

★★★★★

6月-8月

海風が涼しく早朝散策に最適、ただし日陰がほぼないため日中は熱中症対策必須

★★★☆☆

10月-11月

ススキと夕日のコラボが幻想的、空気が澄み天草の島影まで鮮明に望める穴場期

★★★★☆

12月-2月

1月の本丸供養祭と地蔵尊巡礼は殉教者を偲ぶ厳粛な時期、晴天日は遠望が最高

★★★☆☆

見どころ TOP 3

  • 1.本丸石垣と海を見下ろす絶景

    有明海に突き出した丘陵に残る本丸石垣は、慶長年間に築かれた野面積み・打込接ぎの混在が特徴。長さ80-120cmのデイサイト石材を56-65度の緩やかな勾配で積み上げた高石垣からは雲仙岳と天草を一望できる。

    本丸南端から夕刻に海と石垣を斜光で撮るのが定番構図

  • 2.本丸の十字架と殉教者の慰霊碑

    本丸跡には島原の乱で命を落とした一揆軍3万7千人の慰霊と、潜伏キリシタンの信仰を偲ぶ十字架が立つ。発掘で出土した鉛弾・ロザリオ・クルス・花十字紋瓦の破片は現地ガイダンス施設で展示され、世界遺産の核心を体感できる。

    十字架越しに有明海を入れた逆光シルエットが象徴的

  • 3.本丸から望む雲仙岳と有明海

    原城は東に有明海、西に雲仙岳を望む海城で、籠城戦の地形優位性を肌で感じられる。本丸からは天草諸島まで見渡せ、3万7千人が籠城した広大な縄張りの中、虎口遺構(南北90m東西80mの国内最大級)を歩いて当時の規模を体感できる。

    本丸西端から雲仙岳を背景に縦構図で撮ると壮大さが伝わる

物語・伝説

1496年に有馬貴純が築いた原城は、慶長年間にキリシタン大名・有馬晴信が改修して織豊系城郭へと変貌した。1604年には城がイエズス会神父によって祝別され、キリシタンの城として聖性を帯びる。1616年の廃城後、1637年に天草四郎を総大将とする島原の乱が勃発。一揆勢約3万7千人が廃城の原城に籠城し、3ヶ月にわたり幕府軍12万を相手に戦った。1638年2月、内通者・山田右衛門作1人を除き、女子供を含む全員が殉教を選び全滅。徹底破却された遺構が今も殉教の物語を語り続けている。

こんな人におすすめ

島原の乱・潜伏キリシタン史に惹かれる歴史マニア、世界遺産構成資産巡礼者、海と山を望む遺跡で物思いに耽りたい旅行者、虎口遺構や石垣の構造に興味がある城郭ファンに最適。長崎・島原から日帰り可能で、原城一揆まつり時期は地元の伝承文化も体験できる。

現地で知るべき豆知識

  • 1.「ほねかみ地蔵」は1766年に願心寺の住職と村の庄屋が敵味方なく死者を供養するため建立した地蔵塔で、本丸跡から徒歩圏に立つ。観光客が見落としがちな鎮魂の場で、地元では今も供花が絶えない隠れた巡礼スポットとなっている
  • 2.南島原市制作の「原城VR ~よみがえる原城~」をスマホで利用すると、本丸跡に立ったまま当時の天守・櫓・石垣全景を AR で重ね表示できる。現地受付で操作方法案内が受けられ、廃墟系遺跡の体験価値を一段引き上げる無料ツールである
  • 3.毎年4月の「原城一揆まつり」では本丸で慰霊祭・武者行列・地元高校生による劇が行われる。観光客が少ない平日に再現される一揆の物語は、テキストでは伝わらない地元の継承精神を肌で感じられる年に一度の機会となる

訪問情報

アクセス
島原鉄道島原港駅から島鉄バスで約40分、「原城前」下車徒歩約15分。長崎市内から車で約90分、熊本港からフェリーで島原港経由約2時間。
所要時間
本丸・虎口・ガイダンス施設で2-3時間、周辺含めて半日が目安。
予算目安
入場無料、ガイダンス施設も無料。長崎-島原往復交通費約3000円、現地食事1500-2500円が目安(2024年時点)。

周辺観光

車で15分の日野江城跡(国指定史跡、有馬氏の本城)は原城と一体で訪問可。島原市内には島原城(松倉氏の新本拠、雲仙天草国立公園入口)や武家屋敷街、湧水の街並みが広がる。天草へ口之津港からフェリー(約30分)で渡れば、世界遺産崎津集落も日帰り圏内。

詳しく知る

時間のある方向けの詳細情報。

年表

  1. 1496年

    原城築城

    明応5年、有馬貴純が日野江城の支城として有明海に突き出した丘陵に築城、当初は中世的砦であった

  2. 1599-1604年

    有馬晴信の大改修

    慶長年間、文禄・慶長の役で得た築城技術で瓦葺き織豊系城郭へ大改修、1604年にイエズス会神父による祝別を受ける

  3. 1616年

    原城廃城

    元和2年、松倉重政が島原城を新築し、一国一城令により原城は廃城となった。石垣や建築物の多くは残されたとされる

  4. 1637年10月

    島原の乱勃発

    寛永14年、松倉勝家の苛政とキリシタン弾圧に端を発した一揆が島原・天草で勃発、廃城の原城に約3万7千人が籠城

  5. 1638年4月

    幕府軍総攻撃で一揆軍全滅

    寛永15年2月27-28日、幕府軍12万の総攻撃で一揆軍全滅、内通者・山田右衛門作以外は女子供まで殉教した

  6. 1638年以降

    幕府による徹底破却

    幕府は再使用を防ぐため原城を徹底的に破壊、虐殺された一揆軍3万7千人の遺骸を敷地内にまとめて埋めた

  7. 1766年

    ほねかみ地蔵建立

    明和3年7月15日、願心寺の注誉証人と村の庄屋らが敵味方なく死者を供養するため原城跡に地蔵尊塔を建立した

  8. 1938年

    国史跡指定

    昭和13年、原城跡が国の史跡に指定され、保存と調査の本格的な枠組みが整った

  9. 1992年

    発掘調査開始

    平成4年から本丸地区中心に発掘調査が継続、人骨・鉛弾・ロザリオ・クルス・花十字紋瓦などキリシタン遺物が出土

  10. 2017年

    続日本100名城188番に選定

    平成29年4月6日、続日本100名城188番に選定され、城郭遺跡としての価値が再評価された

  11. 2018年

    世界遺産登録

    平成30年6月30日、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」12構成資産の一つとして世界文化遺産に登録

歴史をもっと深く

原城の歴史は明応5年(1496年、戦国時代)、有馬貴純が日野江城の支城として、有明海に突き出した丘陵に築いたことに始まる。当時は丘陵を利用した中世的な砦であったが、16世紀末期の文禄・慶長の役で朝鮮半島の倭城や肥前名護屋城の知識を得た有馬晴信が、慶長年間(1599-1604年頃)に瓦葺き屋根を持つ織豊系城郭として大改修した。本丸・二の丸・三の丸・天草丸・出丸を備え、本丸大手門跡からは2004年の調査で巨大礎石8個が発見されており、近畿地方の最先端築城技術が用いられていたことが判明している。慶長9年(1604年)には主要部の竣工に際してイエズス会神父によるキリスト教の祝別を受け(『1604年度日本準管区年報』)、キリシタンの城としての聖性を帯びた。元和2年(1616年)、有馬氏が日向延岡に転封され松倉重政が日野江城に入城したが、一国一城令の影響で島原城を新築し、原城は廃城となった。石垣や建築物の多くは残されていたとされる。寛永14年(1637年)、島原藩主・松倉勝家の苛政と過酷なキリシタン弾圧に端を発する島原の乱が勃発。天草四郎を総大将とする一揆勢約3万7千人が廃城となっていた原城に立て籠もり、新たに堀・土塁を設け本丸を「島」のように要塞化した。3ヶ月の籠城に対し幕府軍は12万を投入、約1千人の戦死者を出しつつ寛永15年2月27-28日(1638年4月11-12日)の総攻撃で一揆軍を全滅させた。乱後、幕府は再使用を防ぐため原城を徹底的に破却し、犠牲者の遺骸を敷地内に埋めた。明和3年(1766年)に「ほねかみ地蔵」が敵味方供養のため建立される。昭和13年(1938年)、国の史跡に指定。平成4年(1992年)から本丸地区を中心に発掘調査が継続され、人骨・鉛弾・ロザリオ・花十字紋瓦などキリシタン関連遺物が出土。平成29年(2017年)4月6日、続日本100名城(188番)に選定、平成30年(2018年)6月30日には「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産として世界文化遺産に登録された。

文化的背景と意義

原城は2018年の世界遺産登録において、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」12構成資産の一つとして、潜伏キリシタンが信仰を継承するに至った起点として位置付けられている。島原の乱は単なる農民一揆ではなく、徳川幕府のキリシタン禁制が決定的な政策として確立する転換点であり、乱後の鎖国体制と潜伏期(1644-1873年)の信仰継承文化の源流をなす。国指定史跡(1938年指定)としての価値に加え、続日本100名城188番にも選定された複合的文化財である。発掘された花十字紋瓦の破片は、キリシタン大名所有の城郭からの初出土として日本考古学史に画期をなす。原城跡は2009年認定の「島原半島ジオパーク」の主要ジオポイントでもあり、地質遺産と歴史遺産の二重価値を有する稀有な遺跡である。地元では毎年「原城一揆まつり」が催され、慰霊祭・武者行列を通じて殉教者の記憶が継承されている。遠藤周作『沈黙』の歴史的舞台・スコセッシ監督映画『沈黙 -サイレンス-』の精神的源流ともされ、文学・映像作品への影響も大きい。

建築的詳細

原城は標高約30mの丘陵を利用した海城型の連郭式平山城で、本丸・二の丸・三の丸・天草丸・出丸の複数曲輪を有明海に突き出した地形に配する。総面積は東西約700m南北約1300mに及び、当時の海岸線まで含むと現在の本丸より遥かに広大な縄張りだった。本丸大手門跡の虎口は南北90m東西80mのほぼ正方形で、国内最大級の規模を誇る。石垣はデイサイト(石材長軸80-120cm)を主体に玄武岩の礫を裏込めに用い、傾斜56-65度の緩やかな勾配で築かれた。隅角部の角石には割面石(「矢」痕跡を残す)を多数用い、慶長年間前期の豊臣系城郭の影響が色濃い。本丸天守台は織豊系の瓦葺き天守の基礎で、瓦には日本でも稀少な花十字紋が用いられ、キリシタン大名の城郭であったことを示す。城内主通路には玉砂利が敷かれ、本丸西側からは一揆軍が使用したと推測される一辺2-3mの方形竪穴建物跡群が検出されている。乱後の徹底破却により上部構造物は失われたが、石垣・虎口・礎石が地中に保存され、現在もなお発掘調査が継続中である。

外部リンク

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