勝連城

うるま市 · JP

海を望む天険の要害、ローマコインが眠った阿麻和利の世界遺産グスク

沖縄県うるま市の勝連半島に立つ勝連城跡は、琉球王国のグスク及び関連遺産群を構成する世界遺産。最後の城主・阿麻和利が海上交易で栄華を極め、護佐丸を討って王権をも狙った14世紀築造の最古級グスクであり、ローマ帝国とオスマン帝国の貨幣まで出土した東アジア交易の結節点である。

ベストシーズン・ベストタイム

3月-5月

気温20-25度の快適期で野花が咲く石垣を歩ける、梅雨前の写真旬

★★★★★

10月-11月

湿度が下がり遠景がクリアに見える絶景期、夕焼けの石垣が黄金色に染まる

★★★★★

12月-2月

気温15-20度で日帰り散策向き、雨天日が多いが空いていて穴場の時期

★★★★☆

6月-9月

梅雨と猛暑+台風期で観光困難、訪問は早朝6-9時の涼しい時間帯に限定推奨

★★☆☆☆

見どころ TOP 3

  • 1.標高100mから望む一の曲輪の絶景

    勝連半島の付け根、標高60〜100メートルの石灰岩丘陵に築かれた階段状の三つの曲輪。最も高い一の曲輪からは東に金武湾、西に中城湾と太平洋を一望する360度の眺望が広がり、「海のグスク」と呼ばれる所以を体感できる。

    晴天の午前、北東側から金武湾を背景に石垣を撮影

  • 2.曲線美の琉球石灰岩石垣

    波打つように湾曲する石灰岩の野面積み石垣は琉球グスク独特の美。一の曲輪から三の曲輪まで階段状に降りる石垣群は本土の城には見られない有機的な曲線で構成され、夕景では石が黄金色に染まる。

    三の曲輪から二の曲輪へ向かう石段の中腹で見上げ構図

  • 3.二の曲輪の舎殿跡と発掘秘話

    二の曲輪では正面約17メートル奥行14.5メートルの大型舎殿跡が発見され、礎石と柱の支柱跡が今も整然と残る。2016年にはここから3〜4世紀製造のローマ帝国コイン4枚が出土し、日本初の発見として世界を驚かせた。

    二の曲輪中央の柱跡を低い視点で広角に

物語・伝説

14世紀初頭、英祖王統の血を引く勝連按司一世が築いたこの城は、十代目・阿麻和利の手で頂点に達した。圧政の九代目茂知附按司を倒して城主となった阿麻和利は、中国・朝鮮・東南アジアを結ぶ海上交易で富を蓄え、ついには中城の護佐丸を讒言で滅ぼし、王・尚泰久までも狙う。だが1458年、王府軍の前に敗れ廃城。約560年後の2016年、二の曲輪の地中から3世紀のローマコインが姿を現し、阿麻和利が紡いだ世界規模の交易網が歴史の闇から蘇った。

こんな人におすすめ

琉球史と阿麻和利伝説に惹かれる歴史好き、本土の城とは異なる曲線美の石垣を撮りたい写真愛好家、ローマコイン出土ロマンに魅了される考古ファン、那覇から日帰りで世界遺産を巡りたい家族連れ。階段の昇降があるため健脚向き。

現地で知るべき豆知識

  • 1.城跡入口の「あまわりパーク」が2021年に開設され、阿麻和利の生涯を映像と展示で学べる。本物のローマコインのレプリカも展示されており、登城前に立ち寄ると見方が深まる
  • 2.夕方16-17時の西日が石垣を黄金色に染める時間帯は、観光客のピークを過ぎ写真の旬となる。閉門は通常18時(夏季19時)、最終入場は閉門30分前で公式サイトで確認
  • 3.一の曲輪の祠「肝高(きむたか)の御嶽」は今も信仰の対象で、地元の方が参拝に訪れる聖地である。写真撮影は許可されているが、参拝中の方には礼節を守って距離を取ること

訪問情報

アクセス
那覇空港から沖縄自動車道経由で車約60分、または那覇バスターミナルから52番系統で約1時間20分、勝連団地前下車徒歩5分。最寄りICは沖縄南。
所要時間
ガイダンス施設+城跡で約2時間、周辺含めて半日が目安。
予算目安
城跡見学料 大人600円・小人400円(2024年時点参考)、最新料金は公式サイトで確認。那覇からのレンタカー+高速料金で往復約4000円。

周辺観光

東に車15分で海中道路と平安座島・浜比嘉島の絶景ドライブが楽しめ、北に車30分で世界遺産の中城城跡(阿麻和利が滅ぼした護佐丸の城)、南に車25分でうるま市石川歴史民俗資料館、那覇方面に車40分で首里城跡へアクセス可能。

詳しく知る

時間のある方向けの詳細情報。

年表

  1. 14世紀初頭

    勝連按司一世築城

    英祖王統第二代王・大成の五男である勝連按司一世が勝連半島の石灰岩丘陵に築城、グスク中で最古級とされる

  2. 14世紀中頃

    察度王統と縁戚

    二代目勝連按司の娘・真鍋樽が察度王の妃となり、勝連は中山王国との結びつきを強めて繁栄期に入る

  3. 15世紀前半

    城主交代の動乱

    勝連按司五世が伊波按司に敗れ戦死、伊覇按司も浜川按司に敗れて、城主家系が複数回入れ替わる

  4. 15世紀中頃

    阿麻和利の蜂起

    圧政を敷いた九代目茂知附按司を家臣の阿麻和利がクーデターで打倒、十代目城主として黄金時代を築く

  5. 1458年

    護佐丸・阿麻和利の乱

    阿麻和利は中城の護佐丸を讒言で滅ぼした後、王権を狙うも王府軍に敗れ戦死、勝連城は廃城となる

  6. 1972年

    国指定史跡

    沖縄の本土復帰と同時(5月15日)に国の史跡に指定され、復元工事が本格化する

  7. 2000年

    世界遺産登録

    首里城跡など他のグスクと共に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」としてユネスコ世界文化遺産登録、登録名は勝連城跡

  8. 2010年

    地震被害

    沖縄本島近海地震で三の曲輪北東外壁の一部が崩落、その後の継続的な復元工事の契機となる

  9. 2016年

    ローマコイン発見

    2013年発掘出土遺物の精査で14〜15世紀の土層から3〜4世紀製造のローマ帝国コイン4枚が確認、日本国内初の発見

  10. 2017年

    続日本100名城

    4月6日に続日本100名城200番に選定され、城めぐりファンの聖地として注目を集める

  11. 2021年

    あまわりパーク開園

    城跡入口に「あまわりパーク」(ガイダンス施設)が開設、阿麻和利の生涯を映像と展示で学べる拠点となる

歴史をもっと深く

勝連城の歴史は14世紀初頭、英祖王統第二代国王・大成の五男である勝連按司一世が勝連半島の石灰岩丘陵に築城したことに始まる。築城年代はグスク中で最古級とされ、二代目勝連按司の娘・真鍋樽が察度王の妃となったことで察度王統との結びつきを強め、勝連は中山王国との関係下で繁栄した。城主は十代を数えるが、五代目勝連按司五世は勝連の伊波按司に敗れて戦死、六代目伊覇按司も家臣の浜川按司に敗れ、七代浜川按司一世、八代二世と続いた後、九代目茂知附按司は圧政を敷き酒に溺れたため、家臣だった阿麻和利のクーデターで滅ぼされた。十代目阿麻和利は1450年代に「黄金時代」を築き、中国元・明朝の青磁・白磁・染付陶磁器、東南アジアの陶器を大量に輸入し、城内に集積した。『おもろさうし』には勝連を「鎌倉のごとし」と讃える歌謡が複数収録され、当時の繁栄ぶりが伺える。1458年(長禄2年)、阿麻和利は中城の護佐丸を「謀反の疑いあり」と王府に讒言して攻め滅ぼし、続いて尚泰久王の娘・百度踏揚を妻に迎えながらも王権簒奪を企てたが、越来賢雄率いる王府軍の前に敗れ滅亡、勝連城も廃城となった。1972年(昭和47年)5月15日の沖縄本土復帰と同時に国の史跡に指定、2000年(平成12年)11月に首里城跡など他のグスクと共に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」としてユネスコ世界文化遺産に登録された。登録グスクの中では最も築造年代が古い。2010年(平成22年)の沖縄本島近海地震で城壁の一部が崩落する被害があり、復元工事が継続している。2016年、2013年の発掘調査出土遺物の精査により、14〜15世紀の土層から3〜4世紀製造のローマ帝国コイン4枚、17世紀の土層から17世紀のオスマン帝国貨幣1枚が確認され、日本国内におけるローマ・オスマン貨幣の初出土事例として国際的にも大きな話題となった。2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城200番に選定された。

文化的背景と意義

勝連城跡は2000年に世界文化遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」を構成する9資産の一つとしてユネスコに登録され、首里城跡・今帰仁城跡・座喜味城跡・中城城跡・斎場御嶽など琉球独自の城郭文化を世界に示す代表例とされる。登録基準は(ii)地域・時代における人類の価値観の交流、(iii)現存・消滅した文化的伝統の証拠、(vi)歴史的・芸術的に重要な事象との関連で評価された。国指定史跡(1972年)、続日本100名城(2017年、200番)にも認定。「肝高(きむたか)」は『おもろさうし』に登場する勝連の美称で、「気品高い」「霊力高い」を意味し、阿麻和利の生涯を題材とした現代版組踊『肝高の阿麻和利』はうるま市民を巻き込んだ地域演劇として20年以上上演が続く。阿麻和利は王府史観では「逆臣」として描かれてきたが、地元では交易で勝連の民を富ませた英雄として伝承され、護佐丸を讒言で滅ぼした史実への評価は二分される。城内一の曲輪には「肝高の御嶽」など複数の御嶽(うたき)があり、琉球神道の信仰の場として今も地元住民の参拝が続いている。ローマ・オスマン貨幣出土は東アジア海域圏が地中海世界と間接的に繋がっていた証拠として東西交渉史の研究で注目されている。

建築的詳細

勝連城は琉球石灰岩で構成された勝連半島の標高60〜100メートルの丘陵尾根を巧みに利用した「連郭式山城型グスク」で、南から南城(ヘーグシク)、中間の内(ナカマ)、北城(ニシグシク)の三区画から成り、北城がさらに一の曲輪・二の曲輪・三の曲輪と階段状に分かれる構造である。本土の城郭の角ばった石垣と対照的に、琉球石灰岩を野面積みした石垣は地形に沿って優美に湾曲し、「曲線美のグスク」と称される独特の美観を生む。城の中軸となる二の曲輪では正面約17メートル・奥行約14.5メートルの大型舎殿跡が発見され、等間隔に並ぶ礎石と柱の支柱跡から、瓦葺き屋根を伴う格式高い建物であったと推定される。出土した瓦は本土・大和系統の影響を示し、琉球と本土の交流の証拠となっている。一の曲輪には「肝高の御嶽」「玉ノミウヂ御嶽」など複数の御嶽が配され、軍事拠点と信仰の場が同居する琉球グスクの特徴を体現する。城下南側の南風原集落には交易港が、北側には穀倉地帯が広がり、海と農の双方を掌握する立地戦略が読み取れる。

外部リンク

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