座喜味城
読谷村 · JP
湾曲する城壁が舞う、護佐丸が築いた琉球グスク最美の世界遺産城
沖縄県中頭郡読谷村の高台に立つ座喜味城は、築城名手・護佐丸が15世紀初頭に築いた連郭式グスク。優美な曲線を描く城壁と現存最古とされる楔石アーチ門で知られ、2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録された。
ベストシーズン・ベストタイム
緋寒桜の早咲きと心地よい海風、 城壁の曲線が新緑の芝生に映える絶好の散策期
★★★★★
台風が去って晴天が安定、 慶良間まで見通せる澄んだ空気と涼しい風が訪れる穴場期
★★★★★
強い陽射しと台風リスク、 緑が濃く海色も鮮やかだが熱中症対策と日傘が必須
★★★☆☆
気温20度前後で本土の真冬よりずっと過ごしやすく、 北風が強い日は防寒だけ準備
★★★★☆
見どころ TOP 3
1.うねる琉球石灰岩の城壁美
城郭外周365メートルを取り囲む琉球石灰岩の城壁は、 直線を嫌ったかのように波打つ独特の曲線美が魅力。 最大13メートルに達する突出部や相方積みの石組みが、 護佐丸の築城技術の到達点を示す。
二の郭外側を午後に逆光で撮ると曲線が陰影で立体的に浮かぶ
2.楔石アーチ門の琉球最古形
一の郭・二の郭に残るアーチ門は、 頂部に楔石(キーストーン)を挟む琉球最古形式の石門。 中国・東南アジアの石造アーチ技法を琉球に移入した稀有な遺構で、 沖縄戦の被害を奇跡的に免れた現存品である。
二の郭門の真下から見上げる構図でキーストーンを画面中央に
3.中頭一望の戦略的眺望
標高約125メートルの城跡から東シナ海・残波岬・慶良間諸島まで360度見渡せ、 護佐丸が中山王の北方監視拠点として選地した戦略眼を体感できる。 内部は芝生広場で散策しやすく、 海風が抜ける絶景の縄張りである。
一の郭城壁の上から西側の海を入れた広角ショット
物語・伝説
こんな人におすすめ
現地で知るべき豆知識
- 1.二の郭アーチ門は午前中の順光、 一の郭からの遠景は午後の斜光が美しい。 城壁の上は手すりがないため早朝(午前9時前)や夕方の人が少ない時間に城壁上を歩く構図を狙うのが穴場の撮影術である
- 2.隣接する世界遺産座喜味城跡ユンタンザミュージアム(2018年開館)では、 護佐丸の生涯や読谷村の戦争史までを通史で学べる。 城跡入場は無料だがミュージアム入館料500円は払う価値ありで、 学芸員解説の充実度が群を抜く
- 3.城跡の駐車場から徒歩5分の「やちむんの里」では読谷村の伝統陶器の窯元19軒を巡れ、 グスク見学と組み合わせて半日コースになる。 「読谷山花織」の工房見学も予約可で、 沖縄工芸の今昔を体感できる隠れた魅力スポットである
訪問情報
- アクセス
- 那覇空港から車で約60分、 沖縄自動車道石川ICから約30分。 路線バスは那覇バスターミナル発29番系統で約90分、 「座喜味」バス停下車徒歩15分。
- 所要時間
- 城跡見学に1時間、 ユンタンザミュージアム含めて2時間が目安。
- 予算目安
- 城跡入場無料、 ユンタンザミュージアム入館料500円。 那覇からレンタカー利用で交通費2000-3000円程度。 (2024年時点)
周辺観光
車で15分の残波岬は東シナ海に突き出す断崖と日本最大級の灯台で夕日の名所。 やちむんの里(車5分)は読谷山焼の窯元19軒が集まる伝統陶芸の中心地。 車30分の万座毛・恩納海岸も組合せ可で、 グスク文化と琉球工芸・自然絶景を1日でつなぐ周遊コースに最適である。
詳しく知る
時間のある方向けの詳細情報。
年表
- 1416年
築城始まる
中山王尚巴志の北山攻略に呼応し、 読谷山按司護佐丸が高台を選んで座喜味城の築造に着手した
- 1422年頃
城郭完成
二の郭・一の郭の連郭式と楔石アーチ門・湾曲城壁が完成、 護佐丸の本拠地として機能を開始
- 1430年
護佐丸の中城移封
尚巴志の信任により護佐丸が中城城主に移封され、 座喜味城は王府直轄の北方拠点となる
- 16-17世紀
貿易遺物期と廃城
16世紀の中国・東南アジア貿易陶磁が出土、 第二尚氏期の17世紀頃に実質的に廃城となった
- 1853年
ペリー艦隊の記録
ペリー艦隊が琉球測量で訪れた記録に「Zakimi」が登場、 廃城後もランドマークとして認識
- 1944年8月
高射砲陣地化
日本陸軍が読谷北飛行場防護のため一の郭に高射砲陣地を構築、 軍事拠点として再利用された
- 1944年10月
十・十空襲の被害
米軍機の猛攻を受け壊滅的被害、 翌年の沖縄戦では米軍ボーロー射撃場の一部に組み込まれた
- 1956年
重要文化財指定
琉球政府が重要文化財に指定するも、 1958年からは米軍ナイキミサイルレーダー基地が建設された
- 1972年
国指定史跡
沖縄本土復帰と同時に国指定史跡となり、 1973年から文化庁・沖縄県補助で発掘調査が開始
- 1974年
米軍施設返還
10月31日に米軍からレーダー施設が返還、 城跡の本格的な復元と一般公開が可能となった
- 2000年
世界遺産登録
中城城・首里城・今帰仁城・勝連城などとともに「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として登録
- 2017年
続日本100名城
日本城郭協会が選定する続日本100名城(199番)に選ばれ、 城郭ファンの巡礼地となる
- 2018年
ユンタンザミュージアム開館
6月23日に世界遺産座喜味城跡ユンタンザミュージアムが開館、 護佐丸と読谷村史を一体で展示
歴史をもっと深く
座喜味城の歴史は1416年(室町時代応永23年/琉球第一尚氏前期)、 読谷山按司・護佐丸が築城を開始したことに始まる。 護佐丸は北山の今帰仁王子の三世の次男として伊覇按司の家系に生まれ、 山田按司の養子となって読谷山を継いだ。 当時の琉球は中山王・尚巴志が三山統一(北山・中山・南山)を進める激動期で、 1416年の北山攻略にも護佐丸は中山軍として参戦し、 残党を抑える前線拠点として座喜味の高台を選んだ。 築城には旧山田城の石材を解体して運搬し、 奄美諸島からも石工を招いた大事業で、 1422年(応永29年)頃に完成したとされる。 城は二の郭と一の郭からなる連郭式の縄張りで、 両郭にアーチ門を備え、 城壁は琉球石灰岩の相方積みで美しい曲線を描いた。 1430年(永享2年)、 護佐丸は尚巴志の信任で中城城主に移封され、 座喜味城は王府直轄となった。 出土遺物に16世紀の貿易陶磁が含まれることから、 護佐丸退去後もしばらく利用されたと考えられる。 第二尚氏時代の17世紀頃には実質的に廃城となったが、 1853年(嘉永6年)にペリー艦隊が琉球測量で訪れた際の記録には「Zakimi」が登場し、 廃城後も地形ランドマークとして認識されていた。 1944年8月(昭和19年)、 日本陸軍独立高射砲第27大隊第3中隊が読谷飛行場(北飛行場)防護のため一の郭に高射砲陣地を構築。 1944年10月10日の十・十空襲で米軍機の猛攻を受け壊滅的被害を受け、 1945年4月の沖縄戦では米軍上陸地点直近として一帯がボーロー射撃場となった。 戦後1956年(昭和31年)、 琉球政府が重要文化財に指定したが、 1958年(昭和33年)から城跡にナイキミサイルのレーダーサイトが建設された。 沖縄返還の機運に乗り1972年(昭和47年)5月15日に国指定史跡となり、 1973年から文化庁・沖縄県の補助で発掘調査と石垣修復が始まる。 1974年10月31日に米軍からレーダー施設が返還され全面公開、 2000年12月2日にユネスコ世界文化遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の構成資産として登録された。 2017年には続日本100名城(199番)に選定、 2018年6月23日に世界遺産座喜味城跡ユンタンザミュージアムが開館し、 護佐丸の生涯と読谷村史を一体で学べる施設として整備された。
文化的背景と意義
座喜味城は「琉球王国のグスク及び関連遺産群」9資産の構成要素の一つで、 中城城・首里城・今帰仁城・勝連城と並ぶ第一級のグスク遺産である。 国指定史跡(1972年指定)であり、 重要文化財ではなく「史跡」格としての保護が中心となる点で、 国宝建造物を擁する姫路城等とは異なる文化財カテゴリーに属する。 城壁の曲線美は「琉球グスクの白眉」と称され、 護佐丸の技術はその後の中城城・勝連城修築にも応用された。 グスクは単なる城ではなく按司の居館・祭祀空間・避難施設を兼ね、 御嶽(うたき)と呼ばれる聖地を内包する独自の信仰建造物でもある。 護佐丸の名は沖縄全土で「築城の神」として伝承され、 「護佐丸組踊」など組踊・歌劇の題材としても繰り返し描かれてきた。 沖縄戦・米軍基地化・返還という近現代史の縮図を一身に背負った場所でもあり、 戦災と復興の象徴として沖縄県民の精神的支柱となっている。 1991年9月には演劇空間「大地」が「シェイクスピアin座喜味 真夏の夜の夢」を野外上演し、 護佐丸を主人公にした文化的試みも行われた。
建築的詳細
座喜味城の縄張りは標高約125メートルの高台に二の郭(外郭)と一の郭(内郭)を配する連郭式平山グスクで、 城郭外周365メートル、 城内総面積7385平方メートルの規模を持つ。 城壁は琉球石灰岩の相方積み(あいかたづみ・不規則な石を隙間なく組む技法)と一部布積みで構築され、 高さは最低部約3メートルから最高部約13メートルに達する。 最大の特徴は壁面の優雅な曲線で、 直線を避けて緩やかなS字や弧を描く意匠は防御上の死角を減らす機能美と造形美を兼ね備える。 城壁の突出部(コーナー)は防御陣地としての視界確保と同時に石組みの強度を高める工夫であり、 琉球グスクに共通する特徴の極致を示す。 二の郭・一の郭の入口にはそれぞれアーチ門が設けられ、 アーチ頂部に楔石(キーストーン)を挟む古典的な石造アーチ工法は琉球最古級の現存例とされる。 屋根瓦は出土しないため、 内部建物は板葺き屋根の木造平屋と推定されている。 城壁内側には階段状の登り石垣や雁木が設けられ、 守備兵の城壁上移動を容易にする工夫もある。 建材の石灰岩は読谷村周辺の採石場から切り出され、 沖縄戦・米軍占領期の破損後は1970年代以降の修復で旧来の積み方を踏襲して復元された。