岐阜城
岐阜市 · JP
信長が天下統一の旗を掲げた、金華山山頂に聳える戦国山城の最高峰
岐阜県岐阜市の金華山(稲葉山)山頂に立つ岐阜城は、織田信長が1567年の稲葉山城の戦いで奪取し「天下布武」の本拠地とした標高329メートルの山城。麓には信長公居館跡が眠り、現在の模擬天守は1956年再建で日本100名城39番。
ベストシーズン・ベストタイム
岐阜公園の桜と金華山緑のコントラスト、ロープウェイから花見と城が同時に楽しめる絶景
★★★★★
長良川鵜飼(5月-10月)と組合せ可能、山頂は平地より涼しく避暑効果も期待できる
★★★★☆
金華山の紅葉と模擬天守が見事に映え、桜期より人が少なく落ち着いて巡れる穴場時期
★★★★★
空気が澄み濃尾平野の眺望が最も鮮明、晴天日は伊吹山や名古屋駅まで見える絶景日
★★★☆☆
見どころ TOP 3
1.金華山頂の模擬天守と濃尾平野大パノラマ
標高329メートルの山頂に立つ3層4階の模擬天守は、長良川と濃尾平野を一望する大パノラマが圧巻。信長が天下布武の朱印を始めた地で、晴天時には伊吹山や名古屋駅まで見渡せる絶景の城である。
西側展望台から長良川越しに天守を午後の順光で撮る
2.信長公居館跡の発掘された黄金の城下町
山麓の岐阜公園内、槻谷の信長公居館跡は2007年以降の発掘で巨石を用いた石垣と金箔瓦の破片が出土。ルイス・フロイスが讃えた「地上の楽園」の遺構を歩け、現在も発掘調査が進行中の戦国期の生きた史跡である。
発掘エリアの説明板と石垣を午前の柔らかい光で撮る
3.金華山ロープウェイで望む天空の戦国景観
岐阜公園から山頂までの3分間のロープウェイは、信長の山城を空中から体感できる戦国マニア必見ルート。眼下に長良川と岐阜市街が広がり、登城路の険しさが城の天然要害ぶりを物語る貴重な視点である。
ロープウェイのゴンドラ窓から長良川を背景に俯瞰構図で
物語・伝説
こんな人におすすめ
現地で知るべき豆知識
- 1.ロープウェイを使わず七曲り登山道(約60分)で登れば、信長軍も使った中世登城路を辿れる戦国体験ができる。馬の背・百曲がりなど複数ルートがあり、健脚者には大手道の急峻さが城の防御性を物語る
- 2.山麓の岐阜公園内にある信長公居館跡は無料で見学可能、ルイス・フロイスが讃えた金箔瓦と巨石石垣の発掘現場を間近で観察できる。城跡資料館(無料)では出土遺物も展示されている穴場である
- 3.夜間営業期間(夏季・秋季の週末等)はロープウェイと天守が点灯し、山頂から見る岐阜市街の夜景と長良川の鵜飼かがり火が幻想的。事前に岐阜市公式サイトで開催日確認をおすすめする
訪問情報
- アクセス
- JR岐阜駅・名鉄岐阜駅から岐阜バスで約15分「岐阜公園歴史博物館前」下車、金華山ロープウェイ3分で山頂、徒歩約8分で天守。名古屋駅から電車約30分。
- 所要時間
- 山頂と天守で1.5時間、信長公居館跡含めて半日が目安。
- 予算目安
- 天守入場料 大人200円・小人100円。ロープウェイ往復1300円。(2024年時点、最新は公式サイトで確認)
周辺観光
山麓の岐阜公園内には信長公居館跡(無料)と岐阜市歴史博物館がある。徒歩15分の長良川では5月-10月に鵜飼が行われ、戦国時代から続く伝統漁を体感できる。車30分の墨俣一夜城(秀吉ゆかり)、車40分の犬山城(現存12天守の一つ)と組合せ可能である。
詳しく知る
時間のある方向けの詳細情報。
年表
- 1201年
築城の起点
鎌倉幕府政所令・二階堂行政が井口の山(金華山)に砦を築き、京都への押さえとした
- 1539年
斎藤道三の本格築城
美濃守護代となった斎藤道三が稲葉山山頂に本格的な城作りを開始、「美濃の蝮」の本拠地となる
- 1564年
竹中半兵衛の奪取
斎藤氏家臣の竹中重治と安藤守就がわずか16名で稲葉山城を奪取、半年間占拠した逸話が伝わる
- 1567年
信長の岐阜入城
稲葉山城の戦いで織田信長が斎藤龍興から城を奪取、「井口」を「岐阜」と改名し本拠地に定めた
- 1567年
天下布武の開始
信長は岐阜入城と同時期に「天下布武」の朱印を用い始め、本格的な天下統一構想を発表した
- 1582年
本能寺の変の余波
信長と嫡子信忠が本能寺の変で倒れた後、清洲会議で三男の織田信孝が岐阜城主となった
- 1600年
岐阜城の戦い
関ヶ原の前哨戦で西軍についた織田秀信が福島正則・池田輝政らに攻められ落城、戦国の終焉を象徴した
- 1601年
廃城令と加納城築城
徳川家康が岐阜城の廃城を決定、奥平信昌に10万石を与え加納城を新規築城させた
- 1910年
初代模擬天守の再建
長良橋の廃材を活用した木造の3層3階模擬天守が岐阜市民の労働奉仕により再建された
- 1943年
模擬天守の焼失
2月17日早朝に失火で初代模擬天守が焼失、展示の信長遺髪なども失われた戦時下の悲劇
- 1956年
現天守の再建
鉄筋コンクリート3層4階の現模擬天守が市民と財界の2000万円募金で7月25日に落成した
- 2006年
日本100名城選定
4月6日、財団法人日本城郭協会により岐阜城が日本100名城の39番に選定された
- 2011年
国史跡指定
2月7日、金華山一帯約209haの城跡が「岐阜城跡」として国の史跡に指定された
- 2015年
日本遺産認定
「『信長公のおもてなし』が息づく戦国城下町・岐阜」として日本遺産に認定された
歴史をもっと深く
岐阜城の歴史は1201年(建仁元年/鎌倉時代初期)、二階堂行政が井口の山(金華山・稲葉山)に砦を築いたことに始まる。二階堂氏滅亡後は約153年廃城となり、15世紀中頃に美濃守護代・斎藤利永が修復して居城とした。1525年(大永5年)、長井長弘・長井新左衛門尉父子が謀反を起こし長井氏の支配下となり、1533年に新左衛門尉の子・長井新九郎規秀(後の斎藤道三)が城主を継承。1539年(天文8年)から道三が稲葉山山頂に本格的な城作りを開始し、1541年に守護土岐頼芸を追放、「美濃の蝮」と呼ばれる下剋上の象徴となった。1556年(弘治2年)、道三は嫡子斎藤義龍との長良川の戦いで討たれ、義龍が城主に。1561年に義龍が急死すると13歳の斎藤龍興が継承するが、1564年(永禄7年)に家臣の竹中重治(半兵衛)らに半年間城を奪われる事件が起きた。1567年(永禄10年)、織田信長が西美濃三人衆(稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就)の内応により稲葉山城を攻略、龍興は伊勢長島へ逃亡した。信長は本拠を小牧山から移し、古代中国の周王朝の文王が岐山によって天下を平定した故事に因んで城と町を「岐阜」と改名、同時に「天下布武」の朱印を用い始め本格的に天下統一を志向した。1576年(天正4年)、信長は嫡子織田信忠に岐阜城と美濃・尾張2か国を譲渡。1582年の本能寺の変で信忠も戦死すると、清洲会議で信長三男の織田信孝が城主となるが、翌1583年の賤ヶ岳の戦いの余波で兄信雄に攻められ降伏、切腹に追い込まれた。以後池田元助・輝政、豊臣秀勝、織田秀信(三法師)と城主が変遷。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで秀信が西軍につき、岐阜城の戦いで福島正則・池田輝政らに攻められ落城。翌1601年、徳川家康は岐阜城を廃城とし、加納城を新規築城した。1910年に初代模擬天守が木造で再建されたが1943年に焼失、現在の鉄筋コンクリート3層4階の模擬天守は1956年(昭和31年)に再建されたものである。2011年には金華山一帯約209haが国史跡「岐阜城跡」に指定された。
文化的背景と意義
岐阜城は織田信長の「天下布武」朱印使用開始の地として、戦国史・近世日本史において極めて重要な象徴的価値を持つ。城の改名「井口→岐阜」も信長が古代中国の周王朝の故事に倣ったもので、彼の天下統一構想と中国古典への教養を示す史料的意義が大きい。山麓の信長公居館跡からは金箔を貼った瓦の破片や巨石石垣が発掘され、宣教師ルイス・フロイスが『日本史』で「地上の楽園」と讃えた絢爛豪華な城下町の実像が現代によみがえりつつある。2011年に金華山一帯約209haが「近世城郭の成立を考える上で重要」として国史跡に指定され、2006年には日本100名城39番に選定された。2015年には「『信長公のおもてなし』が息づく戦国城下町・岐阜」の構成文化財として日本遺産にも認定。NHK大河ドラマでは「国盗り物語」(1973)「麒麟がくる」(2020)等で道三・信長の本拠として度々登場し、戦国時代を象徴する城として一般文化への影響も大きい。
建築的詳細
岐阜城は標高329メートルの金華山(稲葉山)山頂に築かれた典型的な山城で、山そのものが天然の要害として機能する縄張りである。山頂の城郭部分(本丸・二の丸・三の丸)と山麓の信長公居館部分(槻谷)を中心とし、両者を結ぶ複数の登城路(七曲り・馬の背・百曲がり等)と山中の要所に砦が配置されていた。現在の天守は1956年(昭和31年)に鉄筋コンクリートで再建された3層4階の模擬天守で、城戸久(名古屋工業大学名誉教授)が加納城御三階櫓の図面や古文書を参考に設計、大日本土木が施工した。高さは石垣を含めて約17メートル。1955年8月から市民と財界の浄財2000万円募金により4か月で1800万円が集まり建設された経緯がある。1975年には隅櫓(岐阜城資料館)が彦根城を参考に設計され完成。山麓の信長公居館跡は1984年から発掘調査が継続中で、槻谷を流れる谷川の両側に段々地形が造られ、巨石を用いた石垣、大規模な池を伴う庭園、金箔瓦を葺いた建物群の存在が確認されている。城の建材は近隣の花崗岩を中心とし、信長期の石垣には1メートル超の巨石が多数用いられた点が特徴で、織豊期城郭の先駆的事例として研究上の価値が高い。