清洲城
清須市 · JP
信長が天下統一の狼煙を上げた尾張の出世城、 桶狭間出陣の聖地
愛知県清須市にそびえる清洲城は、 14世紀末に築かれた尾張守護所であり、 織田信長が約10年間本拠とした天下取りの起点。 桶狭間の戦いに出陣し、 本能寺の変後の清洲会議の舞台ともなった、 戦国史の核心を凝縮した城である。
ベストシーズン・ベストタイム
桜と朱の天守のコラボが見事、 夜桜ライトアップで幻想的、 例年最も人気の最盛期
★★★★★
新緑の五条川と朱橋のコントラストが鮮やか、 早朝散策が涼しく快適
★★★☆☆
紅葉と朱橋・白壁天守の三色コラボ、 桜期より人少なく落ち着いた撮影向き
★★★★☆
天守閣プロジェクションマッピングとイルミネーションで幻想的な夜景が楽しめる
★★★★☆
見どころ TOP 3
1.朱塗りの欄干と五条川越しに望む模擬天守
平成元年に町制100周年記念で建てられた鉄筋コンクリート造の模擬天守は、 桃山時代の華やかな装飾を再現した朱と白漆喰のコントラストが特徴。 五条川対岸からの遠望は天守と朱塗りの大手橋が水面に映え、 戦国気分の一枚に仕上がる。
五条川南岸の遊歩道から大手橋越しに天守を入れる
2.千と千尋の油屋に似た大手橋の絶景
天守と本丸跡を結ぶ朱塗りの大手橋は、 五条川を渡るアーチが「千と千尋の神隠し」の油屋に似ているとSNSで話題に。 海外からの写真愛好家も急増し、 夕暮れ時にはライトアップで朱の橋が幻想的に浮かび上がる清洲随一の撮影スポットとなった。
夕方17時前後、 大手橋を横構図で天守と一緒に
3.桶狭間出陣前夜の信長像 (清洲公園)
城跡南側の清洲公園には1936年建立の織田信長銅像が立つ。 桶狭間の戦い前夜、 「人間五十年」を舞った直後の若き信長を躍動感ある姿で表現した名作で、 出世・必勝のパワースポットとして全国から参拝者が訪れる清洲の精神的支柱となっている。
南西側から見上げ、 朝日を背景に逆光シルエット
物語・伝説
こんな人におすすめ
現地で知るべき豆知識
- 1.大手橋からの天守眺望が「千と千尋の油屋」に似ているとSNSで話題化、 海外観光客が急増中。 夕暮れから日没にかけてのマジックアワーが最も雰囲気が出る撮影タイミングで、 17時前後の人が少ない時間帯が穴場
- 2.名古屋城御深井丸西北隅櫓 (重要文化財) は清洲城天守の資材を転用しており「清須櫓」と呼ばれる。 清洲城と名古屋城を合わせて巡れば、 1610年の「清洲越し」の歴史的移転を体感できる尾張史の通の楽しみ方になる
- 3.2010年からフィギュアスケート選手の織田信成 (信長の末裔と称する) が名誉城主に就任した縁から、 信長公子孫繋がりのグッズ販売が天守内売店の名物。 信長の家紋「織田木瓜」の御朱印帳が記念に人気
訪問情報
- アクセス
- 名鉄名古屋本線新清洲駅から徒歩約15分、 JR東海道本線清洲駅から徒歩約15分。 名古屋駅から電車約20分、 名古屋高速「清須出口」から車5分でアクセス可能。
- 所要時間
- 天守と清洲公園・古城跡公園で1.5-2時間、 名古屋城と合わせ半日。
- 予算目安
- 天守入場料 大人300円・小中学生150円。 名古屋からの電車片道330円。 (2024年時点、 最新は公式サイト要確認)
周辺観光
電車20分で名古屋城。 御深井丸西北隅櫓は清洲城天守の資材転用とされ「清須櫓」と呼ばれ重要文化財。 同じ尾張なら徒歩圏に清洲公園・清洲古城跡公園、 車30分で犬山城・小牧山城も射程内で、 信長の本拠遍歴を一日で巡れる。
詳しく知る
時間のある方向けの詳細情報。
年表
- 1405年
築城始まる
応永12年、 尾張・遠江・越前守護管領の斯波義重により、 下津城の別郭として築城 (永和元年/1375年の説もある)
- 1478年
尾張守護所が移転
文明8年の下津城焼失を受け、 守護所が清洲城へ移転し尾張国の中心地となる
- 1555年
信長が奪取
弘治元年、 織田信長が叔父・織田信光と結託し守護代織田信友を排除、 那古野城から本拠を移す
- 1560年
桶狭間の戦い出陣
永禄3年、 信長が清洲城から出陣し、 約10倍の兵力差の今川義元軍を急襲し勝利、 天下統一の礎を築く
- 1562年
清洲同盟締結
永禄5年、 信長と徳川家康との間で同盟がこの城で結ばれる (清洲同盟)
- 1563年
信長が小牧山城へ移転
永禄6年、 信長が美濃斎藤氏との戦に備え本拠を小牧山城へ移し、 清洲は番城となる
- 1582年
清洲会議
天正10年、 本能寺の変後、 信長家臣団による後継協議「清洲会議」がこの城で開催される
- 1586年
信雄の大改修
天正14年、 信雄が2重の堀普請と大天守・小天守・書院の大造営を実施 (前年の天正地震からの復興か)
- 1595年
福島正則が入城
文禄4年、 小田原征伐後に秀吉の国替に逆らった信雄の除封を受け、 賤ヶ岳七本槍の福島正則が清洲城主となる
- 1600年
関ヶ原東軍後方拠点
慶長5年、 関ヶ原の戦いで東軍の後方兵站拠点として活用され、 戦後は徳川家康四男・松平忠吉が入城する
- 1610-1613年
清洲越し・廃城
家康による名古屋遷府指令で城下町・建物・資材ごと名古屋へ大移転、 完了とともに清洲城は廃城
- 1989年
模擬天守再建
平成元年、 旧清洲町町制100周年記念で鉄筋コンクリート造の模擬天守が建造される
歴史をもっと深く
清洲城の歴史は応永12年(1405年、 室町時代)、 尾張・遠江・越前の三国守護管領であった斯波義重による築城に始まる (永和元年/1375年の説もある)。 当初は尾張守護所であった下津城の別郭として建てられ、 京鎌倉往還と伊勢街道が合流し中山道にも連絡する交通の要所として重視された。 文明8年(1476年)、 守護代織田家の内紛により下津城が焼失すると、 文明10年(1478年)に守護所が清洲城に移転し尾張国の中心地となった。 守護代「織田大和守家」(清洲織田氏)の本城として機能し、 尾張下四郡を支配した。 弘治元年(1555年)、 那古野城を本拠としていた織田信長が、 叔父の織田信光と結託して守護代織田信友を排除し清洲城を奪取。 大改修を加えて本拠と定め、 約10年間を清洲で過ごした。 永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは、 この城から出陣した信長が約10倍の兵力差の今川義元軍を急襲し勝利、 天下統一の礎を築いた。 1562年(永禄5年)には徳川家康との間で清洲同盟がここで結ばれ、 1563年(永禄6年)に信長は美濃斎藤氏との戦に備え小牧山城へ本拠を移し、 以後清洲は番城となった。 天正10年(1582年)の本能寺の変後、 信長家臣団による清洲会議がこの城で開催され、 城は次男・織田信雄が相続。 天正14年(1586年)、 信雄が2重の堀普請と大天守・小天守・書院などの大造営を行ったが、 これは前年の天正13年11月29日 (天正地震) からの復興工事だった可能性が高い。 小田原征伐後に秀吉の国替命令に逆らった信雄が除封されると、 文禄4年(1595年)に福島正則が入城。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍後方拠点となり、 戦後は徳川家康の四男松平忠吉、 続いて九男徳川義直が入城し清洲藩本拠となった。 慶長14年(1609年)、 家康による清須から名古屋への遷府指令により、 翌1610年から1613年にかけて「清洲越し」と呼ばれる城下町ごとの大移転が行われ、 城も名古屋城築城の資材として転用されて廃城となった。
文化的背景と意義
清洲城は織田信長が約10年間本拠とした「天下取りの起点」として、 出世・必勝のパワースポットとして全国の歴史ファン・ビジネスパーソンの巡礼地となっている。 名古屋城御深井丸西北隅櫓は清洲城天守の資材を転用したとされ「清須櫓」の異称で重要文化財に指定、 1610-1613年の「清洲越し」と呼ばれる城下町ごとの大移転は日本城下町史上類を見ない大規模移転事業で、 現在の名古屋の都市基盤を作った歴史的事業である。 城の障壁画の一部は總見寺に移されて愛知県指定有形文化財(絵画)に、 尾張旭市良福寺山門は裏門の移築として市の文化財に指定されている。 現在の天守は1989年(平成元年)の旧清洲町町制100周年記念で建造された鉄筋コンクリート造の模擬天守で、 創建当時の絵図は残っていないため桃山時代の城を想像で再現した装飾豊かな姿となっている。 2010年からはフィギュアスケート選手の織田信成 (信長の末裔と称する) が名誉城主に就任、 清須市の「清須越四百年事業」のPR役を務めた。 近年、 大手橋からの天守眺望がスタジオジブリ「千と千尋の神隠し」の油屋に似ているとSNSで話題化し、 海外からの写真愛好家が急増している。
建築的詳細
現在の清洲城天守は、 平成元年(1989年)に旧清洲町の町制100周年を記念して城跡に隣接する清須市清洲地域文化広場内に建造された鉄筋コンクリート造の模擬天守である。 創建当時の絵図や図面が一切残っていないため、 規模も構造も不明であり、 外観や規模は実在した当時を想像して設計された。 天守は4重4階建で高さ約19メートル、 桃山時代の華やかな城を再現するデザインを採用しており、 江戸時代の漆喰塗廻の白い城とは異なり、 朱塗りの欄干・金箔の鯱・装飾豊かな破風など華やかな意匠が特徴。 天守内部には清洲時代の歴史展示・武具甲冑・甲冑試着体験などの郷土史博物館が併設されている。 五条川を渡る朱塗りのアーチ橋「大手橋」は本丸跡と天守を結ぶ意匠的橋で、 城のシンボル景観となっている。 天正14年(1586年)に織田信雄が築いた当時の清洲城は、 2重の堀・大天守・小天守・書院を備え、 城下町は東西約1.6km南北約2.8kmにも及ぶ巨大な規模だったが、 慶長18年(1613年)の名古屋遷府で建物・石垣・木材まで全てが名古屋城築城の資材として転用された。 五条川河川改修時の発掘調査では平安時代の集落跡・清州城下町時代の跡・清須宿時代の遺構が発見され、 復元された石垣の一部が公園内に展示されている。