島原城
島原市 · JP
島原の乱を呼んだ白亜の名城、屏風折れ石垣に守られた九州随一の連郭式平城
長崎県島原市の有明海と雲仙岳の麓に立つ島原城は、 松倉重政が4万石身分を遥かに超えて築いた5重5階の白亜唐造り天守を擁する平城。 過剰築城が領民を苦しめ島原の乱を呼んだ歴史と、 復元天守に並ぶキリシタン資料が語り継がれる九州の名城である。
ベストシーズン・ベストタイム
本丸石垣沿いの桜が白亜天守と映え、 堀のリフレクション撮影の最盛期
★★★★★
堀のレンコン葉群と新緑の本丸が瑞々しい、 早朝訪問が涼しく快適
★★★☆☆
10月の島原城薪能と不知火まつりが重なる、 紅葉と伝統行事の好機
★★★★☆
雲仙岳冠雪と白亜天守の対比が映える、 寒さ覚悟の写真愛好家向け
★★★☆☆
見どころ TOP 3
1.復興天守と唐造り風の白亜の優美
1964年に復元された5重5階・高さ33メートルの独立式層塔型天守は、 破風を持たず最上階を戸板で囲った唐造り風の意匠が特徴。 白漆喰の壁面と本丸水堀のリフレクションが、 4万石大名には不釣り合いな威容を今に伝える。
本丸南西の水堀越しに天守正面を朝の順光で構図する
2.屏風折れ石垣と15メートル水堀の防御美
外堀は深さ15m・幅30-50mで東西360m南北1260mに及び、 石垣は何度も折れ曲がる「屏風折れ」構造で攻め手を多角射撃に晒す。 火山灰地盤での難工事を物語る石積み技術が、 領民一揆を生んだ過酷な築造史を物語る。
二の丸北側の堀端から屏風折れの折れ目を斜光で立体的に
3.天守と巽櫓・キリシタン資料館の物語
復元天守内部は4階構成のキリシタン史料館で、 島原の乱・天草四郎・潜伏キリシタンの遺物を展示。 1972年復元の巽櫓は地元出身の彫刻家・北村西望の作品を展示する西望記念館となり、 天守と並ぶ二重の文化拠点を成す。
本丸広場の中央から天守と巽櫓を斜め45度で二棟同時構図
物語・伝説
こんな人におすすめ
現地で知るべき豆知識
- 1.天守内は4階構成の3テーマ展示でキリシタン史料・郷土史料・民俗史料を階別に観覧でき、 最上階展望台からは有明海と雲仙岳・熊本方面までを一望できる隠れ絶景スポットである
- 2.10月の島原城薪能は本丸広場で篝火を焚いて演じられる風情ある夜の伝統行事、 同月の不知火まつりと重なる週末は市内の宿が早く埋まるため、 2か月以上前からの予約が必須である
- 3.城外の島原武家屋敷街は徒歩10分で水路と国登録有形文化財の屋敷群を無料で見学でき、 森岳商店街の青い理髪舘・猪原金物店も内部公開されていて、 ガイドブック非掲載の散策穴場である
訪問情報
- アクセス
- 島原鉄道島原駅から徒歩約10分、 島原港から車で約10分。 諫早駅から島原鉄道で約1時間20分、 福岡空港から高速バス+島原鉄道で約3時間。
- 所要時間
- 天守・櫓3館の見学で約2時間、 周辺武家屋敷街と組合せて半日が目安。
- 予算目安
- 天守+櫓2館共通券 大人700円・小人350円、 駐車場は本丸外で1日350円。 (2024年時点、 公式サイトで最新確認)
周辺観光
徒歩10分の島原武家屋敷街は水路と国登録有形文化財の篠塚・山本・鳥田邸が並ぶ静かな散策路。 森岳商店街には青い理髪舘・猪原金物店など国登録建築が点在する。 車30分で雲仙温泉・地獄めぐり、 車1時間で原城跡(島原の乱終焉の地)へアクセスできる。
詳しく知る
時間のある方向けの詳細情報。
年表
- 1616年
松倉重政の入封
有馬直純の延岡転封により、 大坂の陣の戦功で松倉重政が4万石で日野江城に入城する
- 1618年
築城開始
有馬氏の政治一新と幕府のキリシタン取締りを名目に、 重政が島原城の築城を開始する
- 1624年
築城完成
7年がかりで5重天守と49棟の櫓を備える総石垣の巨城が完成、 4万石身分を超えた過大な築造となった
- 1637-1638年
島原の乱
勝家の苛斂誅求とキリシタン弾圧で3万7000人が原城に籠城、 翌年幕府軍12万人の総攻撃で鎮圧された
- 1638年
松倉氏改易と高力氏入封
勝家は乱を招いた責で江戸で斬首、 松倉氏は改易となり高力忠房が4万石で入封する
- 1874年
廃城処分
明治7年の廃城令により島原城は廃城処分となり、 土地建物が民間に払い下げられた
- 1876年
天守破却
天守以下の主要建造物が破却され、 本丸は畑地に、 三の丸は島原中学校など学校用地となった
- 1960年
西櫓復元
戦後復興期の文化財再建運動を受けて西櫓が鉄筋コンクリート造で復元された
- 1964年
天守復元
5重天守が鉄筋コンクリートで復元され、 キリシタン史料・藩政時代資料の歴史資料館となった
- 1972年
巽櫓復元
巽櫓が復元され、 地元出身の彫刻家・北村西望の作品を展示する西望記念館となった
- 1980年
丑寅櫓・長塀復元
丑寅櫓と長塀が鉄筋コンクリートで復元され、 丑寅櫓は民具資料館として整備された
- 1996年
観光復興記念館開館
1991年の雲仙普賢岳噴火災害を伝える観光復興記念館が城内に開館した
- 2006年
日本100名城選定
日本城郭協会により島原城が日本100名城の91番に選定された
- 2016年
長崎県指定史跡
島原城跡が長崎県指定史跡として登録され、 地域の文化財として正式に位置付けられた
- 2024年
築城400年
1624年の完成から400年の節目を迎え、 記念事業と各種イベントが市内で展開された
歴史をもっと深く
島原城の歴史は1616年(元和2年)、 有馬直純の日向国延岡藩への転封で始まる。 代わって島原を治めることになった松倉重政は、 大坂の陣での戦功を背景に幕府の信頼を得て、 1618年(元和4年)から有馬氏の旧居城・日野江城を捨てて新しく島原城の築城を開始した。 領民を苦しめる過剰築城の動機には、 旧来の領主であった有馬氏の政治色を一掃する意図と、 1614年以来の幕府のキリシタン禁教令を徹底するための拠点強化があった。 築城は7年を要し1624年(寛永元年)に完成、 4万石の身分には不釣り合いな総石垣・5重天守・49棟の櫓を備える巨城となった。 火山灰や溶岩流による地盤の難工事は石垣の支持に困難を極め、 工事費と人夫役の過酷な賦課が領民の疲弊を招いた。 子・松倉勝家の代に苛斂誅求と隠れキリシタンの大規模摘発が加わり、 1637年(寛永14年)10月、 ついに島原半島と天草の農民・浪人・キリシタン約3万7000人が蜂起する島原の乱(島原・天草一揆)が勃発した。 一揆勢は原城に籠城し、 翌1638年(寛永15年)2月、 幕府軍12万人の総攻撃で全滅した。 島原城自体は乱の最中も陥落せず守り抜いたが、 勝家は領内を騒乱に導いた責で同年江戸で斬首され、 松倉氏は改易となった。 替わって1638年に高力忠房が4万石で入封、 以後譜代の高力・松平(深溝)・戸田・松平(深溝)の4家が交代で治め、 松平深溝家が幕末まで続いた。 1871年(明治4年)廃藩置県で島原県となり、 1874年(明治7年)廃城令で廃城処分、 1876年(明治9年)に天守以下の建造物が破却され本丸は畑地に、 三の丸は学校用地となった。 1960年(昭和35年)西櫓復元を皮切りに、 1964年(昭和39年)に天守、 1972年(昭和47年)に巽櫓、 1980年(昭和55年)に丑寅櫓と長塀が復元され、 観光資源として整備された。 2006年(平成18年)日本100名城91番に選定、 2016年(平成28年)に長崎県指定史跡として登録され、 2024年(令和6年)には1624年完成から400年の節目を迎え、 翌2025年(令和7年)3月10日には城跡が国の史跡に指定された。
文化的背景と意義
島原城は身分不相応な過剰築城が領民一揆を呼んだ象徴的事例として、 日本城郭史上特異な位置を占める。 4万石松倉氏が10万石格の総石垣・5重天守・49櫓を整えたために、 「分不相応の城が藩を滅ぼした」教訓として後世の城郭研究に大きな示唆を与えてきた。 1637年の島原の乱は単なる農民一揆ではなく、 キリシタン信仰の弾圧と過酷な租税が結合した日本最大級の宗教反乱で、 天草四郎時貞を擁立した3万7000人の籠城戦は江戸幕府の対外政策を決定づける契機となった。 鎖国体制の確定・隠れキリシタンの長期化・天草崩れに連なる潜伏信仰の伝統は、 全て島原城の築城負担が点火した連鎖の帰結である。 復興天守内のキリシタン史料館は、 マリア観音・踏絵・潜伏期信仰具を体系的に展示する全国屈指のコレクションで、 2018年世界遺産登録の「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の文脈理解にも欠かせない学術拠点となっている。 巽櫓の西望記念館は地元出身の彫刻家・北村西望(長崎平和祈念像の作者)の代表作を展示し、 城が単なる戦史遺構を超えた地域文化の核となっていることを示す。
建築的詳細
島原城の縄張りは有明海に面した低湿地に築かれた連郭式平城で、 ほぼ長方形の城域を本丸・二の丸・三の丸が南北に連なる構成。 外堀は深さ15メートル・幅30-50メートルで東西360メートル南北1260メートルに及び、 城壁は3900メートルにわたって伸び、 要所に大小49基の櫓を配置した。 本丸は周囲を水堀で囲まれ、 二の丸と廊下橋形式の木橋一本のみで接続する独特の構造で、 橋を破却すれば本丸を独立要塞化できるが逆に袋の鼠状態にもなる縄張の特異点となっている。 同様の事例は高松城の天守曲輪に見られる。 天守は破風を持たない独立式層塔型5重5階(初重の屋根を庇として4重5階とする説もある)で高さ33メートル、 最上階の廻縁高欄を後に戸板で囲ったため「唐造り」風の外観を呈する。 石垣は防御に徹底した「屏風折れ」構造で、 ラインが何度も折れ曲がることで攻め手を多角度から射撃できる利点を持つ。 石材は近隣の火山岩を用い、 火山灰や溶岩流からなる軟弱地盤での施工に独自の工夫が凝らされた。