岩村城
恵那市 · JP
海抜717mに女城主の悲恋が眠る、雲海に浮かぶ日本三大山城の最高峰
岐阜県恵那市岩村町、城山山頂に築かれた岩村城は、本丸が日本の藩主居城で最も高い海抜717mに位置する日本三大山城の一つ。鎌倉の遠山氏が築き、織田と武田の争奪戦で女城主おつやの方が悲劇を遂げた東濃の要衝である。
ベストシーズン・ベストタイム
城下町と藩主邸跡の桜が満開、新緑との対比で六段壁が一段と映える花見の好機
★★★★☆
深緑に包まれた山城は涼風が心地よいが、登城は朝夕推奨で日中は熱中症注意
★★★☆☆
紅葉と雲海が同時に楽しめる年間ベスト期、霧ヶ城の異名を実感する絶景の頂点
★★★★★
雪化粧した六段壁は墨絵のような幻想美、ただし雪道装備と路面凍結に要注意
★★★☆☆
見どころ TOP 3
1.本丸を支える六段壁の高石垣
本丸北側の崖を6段に積み重ねた高石垣は岩村城最大の象徴。野面積みから打込接ぎに継ぎ足された層が時代変遷を物語り、自然石が立ち上がる迫力は山城ファン必見の絶景である。
石垣の真正面から朝の斜光で撮ると6段の段差が際立つ
2.海抜717mから望む霧ヶ城の絶景
雲海が城を包み込み「霧ヶ城」の別名通りに城だけが浮かぶ朝景は秋〜冬の風物詩。山頂本丸跡からは恵那山地と濃尾平野の境が一望でき、戦国期の戦略眼を実体感できる稀有な城跡である。
10〜11月の早朝5時台に出丸駐車場からアプローチ
3.麓に蘇る藩主邸の表御門と太鼓櫓
1990年に木造復元された表御門・平重門・太鼓櫓は藩主邸跡に建ち、本丸への登城前に立ち寄る玄関口。隣接する岩村歴史資料館には松平乗賢の石垣修理絵図など岐阜県指定文化財も並ぶ。
御殿坂の下から太鼓櫓を見上げる構図、新緑期がおすすめ
物語・伝説
こんな人におすすめ
現地で知るべき豆知識
- 1.出丸駐車場まで車で登れば本丸まで徒歩約10分の最短ルートを取れる。藩主邸から徒歩登城すると約40分かかるため、絶景目的なら出丸経由・歴史散策なら麓からの組合せが理想である
- 2.城下町の岩村醸造には岩村城本丸の廊下材を移築した廊下が現存し、地酒「女城主」の試飲もできる隠れた歴史スポット。藩政時代の町家が連なる町並みも国の重要伝統的建造物群保存地区である
- 3.雲海狙いの場合、麓岩村町の気温と本丸の標高差から放射冷却の翌朝に発生確率が上がる。10〜11月の前日が快晴で気温差10度以上が見込まれる夜の翌早朝が最高条件となる
訪問情報
- アクセス
- 明知鉄道岩村駅から徒歩約20分で藩主邸跡、本丸まで更に約20分の登城路。車は中央自動車道恵那ICから約25分、出丸駐車場まで国道257号経由で本丸近くまで行ける。
- 所要時間
- 藩主邸と本丸で半日、城下町散策含めて1日が目安。
- 予算目安
- 入山無料、岩村歴史資料館 大人400円・小中学生200円。城下町の食事込みで2000円前後。(2024年時点)
周辺観光
城下の岩村本通りは国の重要伝統的建造物群保存地区(平成10年選定)で、藩政期の町家が約350m連なる。岩村醸造で本丸廊下材の見学と地酒「女城主」試飲、徒歩圏に藩校知新館跡。車30分で苗木城跡(中津川市)、車50分で大井宿と恵那峡の眺望ポイントへ。
詳しく知る
時間のある方向けの詳細情報。
年表
- 1185年頃
遠山景朝の築城
鎌倉幕府御家人加藤景廉の長男・遠山景朝が遠山荘に赴任、平坦部に砦・館を築き岩村遠山氏の本拠とした
- 1337年
太平記に「霧城」現れる
南朝延元2年/北朝建武4年、越前金ヶ崎城の戦いの記述に「美濃霧城遠山三郎」の名が現れ諸国に認知される
- 1572年
おつやの方の女城主就任
城主遠山景任が病没、信長の叔母おつやの方が幼い養子・御坊丸の後見として采配を振る女城主となる
- 1573年
武田秋山虎繁との婚姻開城
武田家臣秋山虎繁の包囲に対し信長の援軍が間に合わず、虎繁と婚姻する条件で開城し武田領となる
- 1575年
信長の奪還と虎繁夫妻の処刑
長篠の戦い後、信忠を総大将に5ヶ月の攻城戦で奪還、助命約束を反故にし虎繁夫妻を長良川で逆さ磔に処す
- 1582年
信長の甲州征伐拠点
甲州征伐の戦果報告を岩村城で受け取り、武田氏滅亡後は河尻秀隆が城主となるが直後の本能寺の変で団忠正死去
- 1601年
松平家乗の岩村藩立藩
関ヶ原の戦い後に松平家乗が入城し岩村藩2万石を立藩、山上から北西山麓に城主居館を移し城下町を整備
- 1702年
知新館の創設
松平乗紀が信濃小諸より入城、全国3番目となる藩校文武所(後の知新館)を開設し東濃の文教の中心となる
- 1718年
遠山地震で石垣大破
享保3年7月26日に信濃国南部で遠山地震が発生、石垣50箇所以上が破壊され幕府に修理願絵図を提出した
- 1873年
廃城令と建物解体
明治政府の廃城令により全建造物が解体され石垣のみが残る、不明門・土岐門など城門は周辺寺社に移築された
- 1990年
藩主邸跡の木造復元
麓の藩主邸跡に表御門・平重門・太鼓櫓が木造復元され、藩政期の正門景観が約120年ぶりに蘇った
- 2006年
日本100名城選定
財団法人日本城郭協会の日本100名城に選定され、日本三大山城・日本の秘境100選とともに知名度が向上
歴史をもっと深く
岩村城の歴史は文治元年(1185年)前後の鎌倉時代初期、源頼朝の重臣加藤景廉の長男・遠山景朝が遠山荘に赴任して築いた砦・館に始まる。当初は平坦部の小規模な防御施設であり、本格的な山城へと変貌するのは戦国時代末期16世紀中頃、岩村遠山氏と侵攻してきた武田氏の手によるものである。延元2年/建武4年(1337年)の『太平記』には「美濃霧城遠山三郎」の名が現れ、鎌倉末期には諸国に認知される城が存在していた。元亀元年(1570年)に武田家臣秋山虎繁が東濃に侵攻し上村合戦で織田方の明智光廉が撃退するが、元亀3年(1572年)に城主遠山景任が病没。信長の五男御坊丸を養子に迎え、信長の叔母おつやの方が女城主として差配した。同年信玄の遠江侵攻と連動して虎繁が再侵攻し、おつやの方は虎繁との婚姻を条件に開城。天正3年(1575年)長篠の戦いで武田勢が弱体化した好機を逃さず信長は嫡男信忠を総大将に5ヶ月の攻城戦を展開し奪還、開城時の助命約束を翻して虎繁夫妻ら5名を長良川河川敷で逆さ磔に処した。以降は河尻秀隆・団忠正・森長可と城主が交代し、森氏家老の各務元正が約17年かけて近代城郭へ大改修。慶長6年(1601年)に松平家乗が入城して岩村藩を立藩、山上から北西山麓に城主居館を移し城下町を整備した。正保2年(1645年)に丹羽氏信、元禄15年(1702年)に再び大給松平氏の松平乗紀が入城し全国3番目の藩校知新館を開設した。宝永4年(1707年)の宝永地震、享保3年(1718年)の遠山地震では石垣50箇所以上が破壊された。明治6年(1873年)廃城令により建物は全て解体され石垣のみが残り、平成2年(1990年)に藩主邸跡の表御門・太鼓櫓が木造復元、平成18年(2006年)に日本100名城に指定された。
文化的背景と意義
岩村城は奈良県の高取城・岡山県の備中松山城と並び日本三大山城の一つに数えられ、本丸が海抜717mに位置することは諸藩居城中で最高峰である。中津川市の苗木城・可児市の兼山城と合わせて岐阜の三山城とも称され、岐阜県指定史跡として保護されている。「霧ヶ城」の異称は山頂を雲海が覆う光景に由来し、戦国期から鎌倉幕府の使者をも惑わせた天然の防衛機能を象徴する。女城主おつやの方の悲恋物語は地元で「女城主の里いわむら」として観光資源化され、城下に蔵を構える岩村醸造の銘酒「女城主」にも名を残す。城下町は国の重要伝統的建造物群保存地区(平成10年選定)で、藩校知新館の正門と釈奠の間は岐阜県指定文化財として藩主邸跡に現存する。平成18年(2006年)には日本100名城・日本の秘境100選にも選定され、戦国の悲劇と山城の威厳を併せ持つ文化財として国内外の歴史ファンを惹きつけている。
建築的詳細
岩村城の縄張りは城山山頂(海抜717m)を最高所とする梯郭式の山城で、本丸の外側に二の丸、西側に出丸、二の丸外側に三の丸を配する複郭構造を成す。本丸には天守は無く二重櫓2基を構え、三の丸大手口の三重到着櫓が事実上の天守相当として偉容を誇った。最大の特徴は本丸北側の六段石垣で、急峻な崖面を野面積みから打込接ぎへと段階的に積み重ねた防御工事の集大成である。石垣には森氏家老各務元正が約17年を費やした安土桃山〜江戸初期の技法が刻まれ、自然石主体の野面積み、加工石を組合せた打込接ぎ、切込接ぎの並びを時代別に観察できる。1873年(明治6年)時点では本丸に櫓門・納戸櫓・西多門・東多門・平重門・棚門、二の丸に菱櫓・武器蔵・北城米蔵・東城米蔵・二重櫓・不明門など多数の建造物が並んでいたが、廃城令で全て解体された。麓藩主邸跡には平成2年(1990年)に表御門・平重門・太鼓櫓が木造復元され、藩政期の藩主邸正門の景観を蘇らせている。