伏見城
伏見区 · JP
桃山の桃源郷に立つ、豊臣秀吉が築き安土桃山時代に名を与えた幻の隠居城
京都市伏見区の桃山丘陵に立つ伏見城は、1594年に豊臣秀吉が隠居城として築いた天下普請の名城。慶長伏見地震で倒壊・関ヶ原の戦いで炎上・徳川による再建と廃城を経て、現存天守は1964年再建のコンクリ製模擬天守ながら「安土桃山時代」の語源となった歴史の象徴である。
ベストシーズン・ベストタイム
桃山丘陵の桜と白壁天守のコラボが見頃、明治天皇陵参道の桜並木も併せて楽しめる
★★★★★
桃山丘陵のモミジと天守の競演が穴場で美しく、京都市内紅葉名所の喧騒を避けたい人に好適
★★★★☆
新緑と青空の中で映える白壁天守、午前早めの訪問で熱中症を避けつつ快適に散策可能
★★★☆☆
観光客が最も少なく静寂の中で桃山丘陵を独占でき、稀な雪化粧の日は絶景となる
★★★☆☆
見どころ TOP 3
1.桃山丘陵に聳える模擬天守の遠望
1964年に伏見桃山キャッスルランドの目玉として再建された5層6階の模擬天守(大天守と小天守の連立式)。コンクリ造ながら桃山様式の華やかな破風と金箔風意匠を再現し、緑の桃山丘陵から白壁が鮮やかに立ち上がる景観は京都南郊の隠れた絶景である。
城外周の散策路南西側から登り階段越しに天守を見上げる構図
2.「血天井」を伝える京都の寺院群
1600年の伏見城の戦いで自刃した鳥居元忠ら徳川家臣の血が染みた床板は、養源院・正伝寺・源光庵など京都市内の複数寺院に天井板として供養移築された。城跡訪問とセットで巡れば伏見落城の悲劇を実物で追体験できる。
養源院や正伝寺の本堂天井を見上げる撮影(寺院内は撮影可否要確認)
3.明治天皇陵が眠る本丸跡の聖域
1912年に伏見城本丸跡地に造営された明治天皇伏見桃山陵は、上円下方墳形式の御陵で参道230段を登り切ると京都盆地を一望できる。模擬天守から約400m離れた静寂の聖域で、城跡が皇室の聖地へ転じた歴史の重みを実感できる。
参道下からの石段を縦構図で、または陵頂上からの京都市街パノラマ
物語・伝説
こんな人におすすめ
現地で知るべき豆知識
- 1.天守内部は2003年に閉館して以後立入禁止のままで、現在は外観のみの見学。模擬天守と知った上で「桃山時代の象徴」として鑑賞すれば失望せず楽しめ、無料で外周散策と写真撮影ができる穴場である
- 2.京都市内から「血天井」のある養源院・正伝寺・源光庵を伏見城跡とセットで巡るルートは、ガイドブックに載らない裏伏見城ツアーとして歴史ファンの間で語られる隠れたコース構成となっている
- 3.明治天皇伏見桃山陵の230段の石段を登ると、上円下方墳の御陵頂上から京都市街・東山連峰を一望できる。桃山丘陵の最高所で観光客もまばらな静寂の名所、夕暮れ時の景観が特に美しい
訪問情報
- アクセス
- JR奈良線「桃山」駅から徒歩約15分、または京阪本線「伏見桃山」駅・近鉄京都線「桃山御陵前」駅から徒歩約25分。京都駅からJRで約10分とアクセス良好。
- 所要時間
- 城跡外周と明治天皇陵で2時間、血天井寺院を含めれば半日。
- 予算目安
- 城跡外観見学は無料、明治天皇陵参拝も無料。京都駅からの往復交通費約500円、養源院拝観料約600円。(2024年時点)
周辺観光
南東約2キロメートルの伏見稲荷大社は千本鳥居で世界的に著名、南西約1.5キロメートルの月桂冠大倉記念館・松本酒造など伏見酒蔵街は日本三大酒どころの一つ。北方向の養源院・正伝寺・源光庵には伏見城の血天井が現存し、城跡巡りと組合せて訪れる歴史巡礼ルートが組める。
詳しく知る
時間のある方向けの詳細情報。
年表
- 1591年
秀吉の隠居屋敷起工
豊臣秀吉が関白と聚楽第を秀次に譲り、伏見指月の地に隠居屋敷を築き始める
- 1594年
指月伏見城に秀吉入城
宇治川の流路変更を伴う大規模土木工事と共に築城が進み、秀吉が本格的に入城した
- 1596年閏7月
慶長伏見地震で倒壊
完成直後の指月伏見城が大地震で天守上二層が倒壊、女房73名と中居500名が死亡した
- 1597年
木幡山伏見城完成
指月から北東約1キロメートルの木幡山に再築された新天守が5月に完成、秀吉が移った
- 1598年
秀吉、伏見城で没す
8月18日に豊臣秀吉が木幡山伏見城内で死去、遺言で秀頼は大坂城へ移り家康が入城した
- 1600年
伏見城の戦い・落城
関ヶ原前哨戦で石田三成方4万に攻められ、城代鳥居元忠ら1800人が11日籠城後に全員自刃
- 1602年
徳川家康による再建
関ヶ原勝利後の家康が普請奉行に藤堂高虎を起用し、木幡山の縄張を踏襲して再建した
- 1603年
家康の征夷大将軍宣下
徳川家康が伏見城で征夷大将軍宣下を受け、以後三代家光までの将軍宣下式の舞台となる
- 1619年
廃城決定
元和5年に伏見城の廃城が決まり、翌年から城割りが始まり建物は二条城・淀城等に移築された
- 元禄時代頃
桃山と呼ばれる
城跡に桃の木が植えられ「桃山」の名が定着、「安土桃山時代」の語源となった
- 1912年
明治天皇伏見桃山陵造営
本丸跡地に明治天皇の御陵が造営され、城跡の中心部が皇室祭祀の聖地に転じた
- 1964年
模擬天守の建造
伏見桃山キャッスルランドの目玉として鉄筋コンクリ造の模擬天守(大小連立式)が建てられた
- 2003年
テーマパーク閉園
伏見桃山キャッスルランドが閉園、模擬天守は内部非公開となり外観のみ見学可となる
- 2007年
城跡公園として再開放
天守内部は閉鎖のまま、城跡公園として外周散策が再び可能となり現在に至る
歴史をもっと深く
伏見城の原形は1591年(天正19年)、関白の位と聚楽第を甥の豊臣秀次に譲った豊臣秀吉が、伏見指月の地に築いた隠居屋敷に始まる。1592年(文禄元年)8月、秀吉は文禄の役で名護屋に在陣しながら本格築城を指示し、宇治川の流路を変更して外濠とする大規模土木工事を伴う天下普請として、1594年(文禄3年)に秀吉が入城、1596年(文禄5年)に完成をみた。しかし完成直後の同年閏7月13日、慶長伏見地震が発生し天守上二層が倒壊、女房73名と中居500名が死亡する惨事となった。秀吉は北東約1キロメートルの木幡山に城を再築させ、翌1597年(慶長2年)5月に新天守が完成、これが木幡山伏見城と呼ばれる。1598年(慶長3年)8月18日、秀吉はこの城内で没した。秀吉の遺言で豊臣秀頼は大坂城へ移り、五大老筆頭の徳川家康が代わって入城し政務を執った。1600年(慶長5年)、家康が会津征伐に向かった隙に石田三成方の小早川秀秋・島津義弘軍4万が伏見城を攻撃、城代鳥居元忠ら約1800人は11日間籠城し全員自刃して落城、建物の大半が焼失した。家臣らの血染めの床板は京都市の養源院・正伝寺・源光庵などに天井板として供養移築されたと伝わる。関ヶ原勝利後の1601年(慶長6年)、家康は伏見城再建と二条城築城に着手し、1602年(慶長7年)末に再建が完成、藤堂高虎が普請奉行を務めた。1603年(慶長8年)、家康はこの伏見城で征夷大将軍宣下を受け、以後三代家光まで将軍宣下式が伏見城で行われた。1605年(慶長10年)の徳川秀忠、1623年(元和9年)の徳川家光と、3代の将軍宣下の舞台となった後、1619年(元和5年)に廃城が決定され翌年から城割りが始まり、建物や部材は二条城・淀城・福山城などに移築された。元禄時代以降に城跡へ桃の木が植えられ「桃山」と呼ばれるようになり、これが「安土桃山時代」の語源となった。1912年(明治45年)、本丸跡に明治天皇伏見桃山陵が造営され、1964年に北東隣接地に伏見桃山キャッスルランドの目玉として鉄筋コンクリ造の模擬天守が建てられ現在に至る。
文化的背景と意義
伏見城は日本の「安土桃山時代」という時代区分名そのものの語源となった歴史的存在で、織田信長の安土城と並び安土桃山文化を象徴する城である。秀吉の隠居城として築かれながら、慶長伏見地震で倒壊・関ヶ原前哨戦で炎上・徳川による再建と廃城という3つの劇的な終焉を経た稀有な歴史を持つ。「血天井」と呼ばれる落城時の家臣の血が染みた床板が京都市の養源院・正伝寺・源光庵・宝泉院など複数寺院に天井板として供養移築されたと伝わり、戦国末期の悲劇を物理的に伝える稀な物証群となっている(科学的調査では血液型は数種検出されたが「人血」とは確認されていない)。1912年の明治天皇伏見桃山陵の造営により城跡の中心部は皇室祭祀の聖地となり、城跡そのものが立入禁止区域となった点も全国的に珍しい。現存する模擬天守は1964年建造のコンクリ造で文化財指定はなく、2003年に閉館して以後内部は非公開のままだが、桃山様式を再現した外観は京都南郊の景観要素として地域に定着している。秀吉が金箔瓦と豪壮な意匠で築いた本物の伏見城の遺構は、二条城・淀城・福山城・西本願寺唐門などに移築建造物として分散して残り、京都・畿内の城郭建築史を辿る上での重要なジグソーピースとなっている。
建築的詳細
豊臣期木幡山伏見城は、本丸の西北に5層天守を配し、西方に二の丸、北東に松の丸、南東に名護屋丸、曲輪下に三の丸・山里丸を加え出丸を含め12曲輪で構成された連郭式の縄張りで、名護屋城との類似性が指摘される秀吉好みの配置だった。徳川再建の伏見城は木幡山の縄張りをほぼ踏襲しつつ北西部の弾正丸・大蔵丸・得善丸・御花畑山荘とその堀を放棄して縮小し、石垣を新たに積み直し天守台を本丸内北寄りに移動した。再建時の瓦には豊臣家の桐紋が引き続き使われたことが発掘で確認されている。1964年に伏見桃山キャッスルランドのシンボルとして建てられた現存の模擬天守は、鉄筋コンクリート造5層6階(大天守)と3層4階(小天守)の連立式構成で、桃山様式を意識した華やかな千鳥破風・唐破風と白漆喰風の壁面・金箔風の鴟尾を再現している。ただし位置は本物の天守台から北東に約400m離れた場所にあり、規模・素材・縄張り上の位置は史実とは一致しない。本物の遺構は、二条城唐門・西本願寺唐門(国宝)・福山城伏見櫓(重要文化財)・淀城天守台などに移築建造物として分散して残り、桃山様式の唐門意匠と曲輪石垣の典型を今に伝えている。