平戸城
平戸市 · JP
三方を海に抱かれた山鹿流の海城、平山城唯一の縄張りを今に伝える九州の名城
長崎県平戸市の丘陵上に立つ平戸城は、平戸瀬戸を見下ろす天然の堀と山鹿素行の軍学に基づく縄張りで知られる平戸藩松浦氏の居城。築城-破却-再築の数奇な歴史を経て、現在は懐柔櫓に1日1組限定で泊まれる「キャッスルステイ」が話題を呼ぶ。
ベストシーズン・ベストタイム
桜と模擬天守のコラボに加え亀岡神社の例祭が重なる平戸観光のハイシーズン
★★★★★
ジャンガラや平戸南風夜風コンサート等の夏祭りで城下が活気づく時期
★★★☆☆
城内の紅葉と平戸の地酒・新鮮な海産物を堪能できる落ち着いた季節
★★★★☆
澄んだ空気の中で平戸大橋越しの天守と九州本土の山並みが映える
★★★☆☆
見どころ TOP 3
1.模擬天守と平戸瀬戸の絶景パノラマ
1962年に再建された5階建ての模擬天守は、最上階展望室から平戸港・平戸瀬戸・平戸大橋・対岸の九州本土までを一望できる九州西海岸屈指の眺望スポット。内部は松浦党資料館として国重文の環頭大刀も展示している。
天守最上階から朝靄に煙る平戸大橋を望遠で
2.平戸港から望む松浦氏の海城
丘陵全体が天然の要害となる海城構成は、対岸の平戸港から眺めてこそ真価が分かる。三方を海に囲まれ、白亜の天守と緑の松林が青い海に映える絶景は江戸時代の浮世絵にも描かれた平戸を象徴する風景である。
夕暮れの平戸大橋越しに天守シルエットを
3.山鹿流軍学の縄張りと見奏櫓
平山城で唯一の山鹿流による縄張りで、神社を鬼門に置き乾櫓を天守代用とする独特の配置が見所。1962年に復興された見奏櫓・地蔵坂櫓・乾櫓・懐柔櫓と現存の狸櫓・北虎口門が当時の防御思想を今に伝える。
見奏櫓を見上げる構図で軍学の縄張りを切り取る
物語・伝説
こんな人におすすめ
現地で知るべき豆知識
- 1.2021年から懐柔櫓は1日1組限定の宿泊施設「キャッスルステイ平戸」として営業中。 城に泊まれる体験は日本でも極めて稀で、 平戸藩主気分で平戸瀬戸の朝日を独占できる一生モノの宿泊先である
- 2.天守内部の松浦党資料館では国重文の環頭大刀(亀岡神社蔵)が必見だが、 同じ亀岡公園内の亀岡神社・松浦史料博物館をセットで巡れば松浦氏約700年の歴史が一日で立体的に理解できるルートになる
- 3.対岸の松浦史料博物館前は平戸港越しに城全体を捉える絶好の撮影地。 日没後のライトアップと、 朝7時前後の朝凪に映る逆さ天守は地元写真家の鉄板スポットで観光客には知られていない穴場である
訪問情報
- アクセス
- 博多駅からJR特急みどり/ハウステンボスでたわらまち駅まで約2時間、 そこから西肥バス約30分の平戸桟橋下車徒歩10分。 福岡空港から車で約3時間。
- 所要時間
- 天守と本丸で1.5時間、 亀岡神社・公園含めて約2-3時間が目安。
- 予算目安
- 天守入館料 大人520円・小人310円。 懐柔櫓キャッスルステイは1泊2食66万円-(1日1組)。 (2024年時点)
周辺観光
対岸の松浦史料博物館(旧平戸藩主松浦家)は徒歩15分で松浦氏700年史を辿れる。 車10分の平戸ザビエル記念教会・寺院と教会の見える風景、 車5分の平戸オランダ商館は16-17世紀の国際貿易史を今に伝える必訪スポット。
詳しく知る
時間のある方向けの詳細情報。
年表
- 1599年
日之嶽城築城開始
松浦鎮信が現在の城地・日之嶽で最初の築城を始める、 平戸城の歴史の起点となる
- 1613年
自焼破却
完成間近の城を松浦鎮信が自ら火を放ち破却、 徳川幕府の嫌疑回避が動機と伝わる
- 1685年
山鹿素行の死
松浦重信が招聘を望んだ兵学者山鹿素行が没し、 後に一族の山鹿義昌が藩士として迎えられる
- 1703年
再築城許可
5代藩主松浦棟の願いに幕府が異例の再築許可、 徳川との姻戚と東シナ海警備が背景
- 1704年
再築工事着工
2月に着工、 山鹿義昌指導の下、 山鹿流軍学の縄張りで本格的な築城が始まる
- 1707年
再築ほぼ完成
宝永4年に平戸城がほぼ完成、 二の丸に3重3階の乾櫓を天守代用として築く
- 1718年
全城郭完成
細部の整備が完了し全城郭として完成、 以降明治まで平戸藩松浦氏の居城として機能
- 1871年
廃藩置県
明治4年の廃藩置県により平戸藩が消滅し、 翌年の廃城令で平戸城の廃城が正式に決定する
- 1872年
廃城令で解体
狸櫓と北虎口門を残して城の建物が解体され、 城跡は亀岡公園として整備される
- 1962年
模擬天守再建
昭和37年に模擬天守と見奏櫓・乾櫓・地蔵坂櫓・懐柔櫓が鉄筋コンクリート造で復興される
- 2006年
日本100名城選定
4月6日、 平戸城が日本100名城(90番)に選定され全国的な認知度が高まる
- 2021年
キャッスルステイ開業
懐柔櫓を改修した1日1組限定の宿泊施設キャッスルステイ平戸が4月1日に営業を開始
歴史をもっと深く
平戸城の歴史は、 慶長4年(1599年)に下松浦党の棟梁・松浦鎮信(法印)が現在の城地である日之嶽に最初の築城を開始したことに遡る。 鎮信は豊臣秀吉の九州平定に加わり、 壱岐守護を称する波多氏に代わって松浦郡と壱岐一国の所領を安堵された松浦党最大の大名であった。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの頃、 徳川家康の嫌疑を晴らすため城の一部を破却したと伝わるが、 慶長18年(1613年)、 完成間近となった頃に火災で大半を焼失する。 自ら火を放ったとされ、 理由は豊臣氏との親交による江戸幕府の嫌疑回避説と、 最愛の嗣子久信の死を悼んだ説の両説が伝わる。 火災後、 藩は再建を断念し、 平戸港を挟んだ北側(現・鏡川町)に「中の館」と呼ばれる居館を構えて藩庁とした。 これにより平戸藩は肥前と壱岐にまたがる二国支配でありながら、 城を持たない陣屋大名となった。 第4代藩主松浦重信(鎮信)は兵学者山鹿素行と交流があり平戸への招聘を望んだが叶わず、 貞享2年(1685年)に素行が亡くなる。 後に一族の山鹿高基・義昌(平馬・藤助)が藩士として迎えられた。 元禄15年(1702年)、 鎮信は幕府に再築城を願い出て、 翌元禄16年(1703年)に異例の許可を得る。 徳川との姻戚関係と東シナ海警備の必要性が背景にあった。 5代藩主松浦棟により元禄17年(1704年)2月に着工、 宝永4年(1707年)にほぼ完成した。 天守は上げられず、 二の丸に建てた3重3階の乾櫓をその代用とした。 山鹿義昌の指導の下、 山鹿流軍学に基づく縄張りが構築され、 平山城では唯一の山鹿流城郭となった。 明治4年(1871年)の廃藩置県後、 翌年の廃城令で廃城となり、 現存する狸櫓と北虎口門(搦手門)を残して建物は解体された。 城跡は亀岡神社の境内・亀岡公園として整備され、 昭和37年(1962年)に模擬天守・見奏櫓・乾櫓・地蔵坂櫓・懐柔櫓が建てられた。 平成18年(2006年)4月6日には日本100名城(90番)に選定された。 令和元年(2019年)、 平戸市・日本航空・百戦錬磨グループのKessha・アトリエ天工人による共同企業体が懐柔櫓の宿泊施設化事業協定を結び、 令和3年(2021年)4月1日から1日1組限定のキャッスルステイ営業が始まった。
文化的背景と意義
平戸城は江戸時代中期に築城が裁可された極めて異例の城郭である。 江戸幕府は一国一城令(1615年)以降、 新規築城を厳しく制限したため、 元禄期の再築許可は徳川との姻戚関係と東シナ海警備の地政学的重要性によるものとされる。 平山城で唯一の山鹿流軍学に基づく縄張りという点で日本城郭史上の特異な位置を占め(平城の赤穂城も発掘調査で可能性が示唆される)、 兵学と実践城郭設計を結ぶ希少な遺構である。 平戸は16世紀以降、 鄭成功生誕地・フランシスコ・ザビエル来航地・平戸オランダ商館・平戸イギリス商館の置かれた国際貿易港であり、 松浦氏は南蛮・紅毛との通商を取り仕切る西国の重要大名であった。 平戸城は鎖国期に至る東シナ海警備の象徴的拠点として機能し、 異国船監視と海防の城という性格を持つ。 平成18年(2006年)の日本100名城選定により全国的な認知度が上がり、 令和3年(2021年)に始まった懐柔櫓「キャッスルステイ」は1泊66万円以上の高価格帯にも関わらず予約が取りにくい人気プランとなり、 「文化財に泊まる」新しい観光モデルの先駆として注目されている。
建築的詳細
平戸城は平戸島北部の丘陵頭頂部に本丸を置き、 南側に二の丸、 東側に三の丸を配する梯郭式の平山城である。 三方を海(平戸瀬戸・平戸港・平戸湾)に囲まれた天然の堀により海城の機能を併せ持つ。 縄張りは山鹿義昌の指導により山鹿流軍学の原則に従い、 神社(現在の市営相撲場跡)を鬼門の北東に配置、 天守代用の乾三重櫓を本丸北西の乾(戌亥)に建てるなど、 方位と軍学を結ぶ独自の配置を持つ。 現存遺構は狸櫓と北虎口門(搦手門)の2基のみで、 いずれも17世紀末-18世紀初頭の建築。 北虎口門は瓦葺入母屋造の薬医門で、 当時の平戸藩の格式を今に伝える。 昭和37年(1962年)の復興建物群は鉄筋コンクリート造で、 模擬天守は地上5階・展望塔形式・高さ約25メートル、 天守台跡に建てられている。 見奏櫓・地蔵坂櫓・乾櫓・懐柔櫓は外観のみ史料に基づく復興で、 内部は資料館・宿泊施設に転用された。 石垣は野面積みと打込接の混在で、 元禄期の典型的な技法を見ることができる。