明石城
明石市 · JP
現存重要文化財の三重櫓2基が並び立つ、 駅から徒歩5分の播磨の名城
兵庫県明石市の人丸山に建つ明石城は、 1619年に小笠原忠真が西国外様大名抑えの拠点として築いた平山城。 天守は建てられなかったが、 巽櫓・坤櫓の三重櫓2基が今も並び立ち、 国の重要文化財に指定されている。
ベストシーズン・ベストタイム
日本さくら名所100選の桜と石垣・櫓のコラボが圧巻、 関西屈指の花見の名所として人出最盛期
★★★★★
新緑と石垣の落ち着いた景観、 早朝の堀端散策が涼しく快適、 観光客も比較的少ない
★★★☆☆
紅葉と巽櫓・坤櫓の白漆喰のコントラストが映える、 坤櫓の秋期土日祝公開と重なる好機
★★★★☆
冬枯れの澄んだ空気で石垣の細部が見え、 早朝に空くため写真愛好家には穴場の季節
★★★☆☆
見どころ TOP 3
1.並び立つ巽櫓と坤櫓の絶景
本丸南端の石垣上に三重櫓が2基並んで建つ姿は全国でも稀。 坤櫓は伏見城天守、 巽櫓は船上城天守からの移築と判明しており、 戦国末期の城郭建築の重要な遺構として国の重要文化財に指定されている。
三の丸広場の芝生から南北に並ぶ二基の櫓を望む構図が定番
2.国重要文化財・巽櫓の細部
層塔型3重3階の巽櫓は、 旧船上城天守を移築したと1982年の改修工事で判明した貴重な現存遺構。 春期(3-5月)の土日祝のみ1階を無料公開し、 内部構造と梁組を間近で観察できる希少な機会となる。
南東側石垣下から見上げる構図で破風の妻部を強調
3.明石公園の桜と石垣の春絶景
中堀の内側は兵庫県立明石公園として整備され、 日本さくら名所100選に選定されている。 石垣と桜のコントラスト、 堀端の散策路、 太鼓判の景観美で関西屈指の花見スポットとして毎年多くの来訪者で賑わう。
中堀沿いから石垣と桜を入れた横構図で
物語・伝説
こんな人におすすめ
現地で知るべき豆知識
- 1.巽櫓は春期(3-5月)、 坤櫓は秋期(9-11月)の土日祝のみ1階が無料公開される。 シーズンと曜日を合わせて訪問するか、 公式サイトで公開予定を確認してから出かけたい貴重な機会である
- 2.JR明石駅北口を出ると駅ホームから既に本丸の櫓と石垣が間近に見える絶景立地。 改札を出る前にホームの北側端から1枚撮ると駅と城が同フレームに収まる珍しいショットが得られる
- 3.三の丸の「武蔵の庭園」は宮本武蔵が築城時に町割り指導した縁で2003年に整備された無料スポット。 玉砂利と石組のミニ庭園で、 通常の天守跡見学とセットで武蔵の足跡を辿れる隠れた見どころ
訪問情報
- アクセス
- JR神戸線・山陽電鉄本線の明石駅から徒歩約5分。 駅ホーム北側から既に櫓と石垣が見える絶好立地で、 大阪駅から新快速で約40分、 神戸三宮から約15分。
- 所要時間
- 本丸・櫓見学だけで1時間、 明石公園散策と武蔵の庭園を含めて2-3時間が目安。
- 予算目安
- 明石公園・城跡入園は無料。 巽櫓・坤櫓内部公開も無料。 周辺ランチ(明石焼1000円程度)込で1日2000-3000円。 (2024年時点)
周辺観光
JR神戸線で約20分の姫路城は世界遺産の国宝天守を擁する必訪セット先。 山陽電鉄で約15分の須磨浦公園は瀬戸内海展望の名所。 明石公園内には県立図書館・武蔵の庭園、 駅周辺には明石焼の名店が集中する。 車で約20分の舞子公園からは明石海峡大橋を間近に望める。
詳しく知る
時間のある方向けの詳細情報。
年表
- 1617年
築城命令
信濃松本藩主から明石藩主となった小笠原忠真に、 徳川秀忠が西国外様大名抑えの拠点として築城を命じる
- 1619年
作事開始
人丸山(赤松山)を選定し、 三木城・高砂城・船上城・伏見城の遺材を転用して作事が本格開始された
- 1620年
小笠原忠真入城
船上城から忠真が移り住み、 同年6月から城内建物工事が本格化、 城下町の町割りに宮本武蔵が指導
- 1632年
小笠原氏転封
築城した小笠原忠真は豊前小倉藩へ転封、 以後城主は短期間に頻繁に交代する不安定期に入る
- 1682年
越前松平家入城
松平直明が6万石で入城、 以後明治維新まで10代189年間親藩松平氏の居城として安定期を迎える
- 1739年
元文の大修築
各城の遺材を集めた建物の老朽化が進み、 第2代藩主松平直常により大規模な修築工事が行われた
- 1874年
廃城令で廃城
明治7年の廃城令により最後の藩主・松平直致の代で廃城、 多くの建物が順次解体される運命となる
- 1881年
艮櫓解体
神戸相生小学校(現湊川小学校)の校舎建築用材として、 北東隅の艮櫓が解体された
- 1883年
明石公園整備開始
明石町内有志により城跡が公園として整備され、 後の県立明石公園の母体となる
- 1918年
県立明石公園開園
皇室御料地を兵庫県が借り受け、 4月15日に正式に県立明石公園として開園した
- 1957年
重要文化財指定
6月18日、 現存する巽櫓・坤櫓が国の重要文化財に指定され文化財保護の対象に
- 1982年
櫓の来歴判明
改修工事中に巽櫓は旧船上城天守、 坤櫓は旧伏見城天守からの移築と判明し研究上の大発見となる
- 1995年
阪神・淡路大震災被害
1月17日の震災で石垣崩落など大きな被害、 5年に及ぶ修復工事の発端となる
- 2004年
国史跡指定
9月30日、 城跡が国の史跡に指定され、 文化財としての位置づけがより確固たるものとなった
- 2006年
日本100名城選定
4月6日、 公益財団法人日本城郭協会の日本100名城(58番)に選定された
歴史をもっと深く
明石城の歴史は1617年(元和3年)、 信濃松本藩主から明石藩主となった小笠原忠真に対し、 第2代将軍徳川秀忠が築城を命じたことに始まる。 徳川幕府は西国外様大名抑えの戦略拠点として、 姫路城に次いで明石の地に着目した。 山陽道が通り、 北は丹波・但馬への分岐点、 南は淡路・四国へのルートを擁する交通の要衝であった。 当初は塩屋町・かにが坂・人丸山(赤松山)の3候補から、 防備に適した池を持つ人丸山に決定。 旗本の都筑為政・村上吉正・建部政長らが普請奉行として派遣され、 銀一千貫が築城費として支給された。 周辺の三木城・高砂城・枝吉城・船上城の木材が転用され、 坤櫓は伏見城、 巽櫓は船上城の遺材が使用されたと伝えられる。 細川忠興からは中津城天守の部材も贈られた。 1619年(元和5年)正月から作事開始、 1620年(元和6年)正月には忠真が船上城から移り住み、 同年6月から城内建物工事が本格化した。 天守台まで積まれたが天守は建てられず、 三重櫓4基(巽・坤・乾・艮)が四隅に配置された。 築城と並行した城下町の町割りは、 当時小笠原忠真の客分だった剣豪・宮本武蔵が指導したと『赤石市中記』『播磨鑑』など複数の史書に記録されている。 1632年(寛永9年)、 苦心して築城した忠真は豊前小倉藩へ転封。 以後、 戸田松平氏、 大久保氏、 松平(藤井)氏、 本多氏と城主が短期間に交代し、 1682年(天和2年)からは越前松平家の松平直明が6万石で入城、 以後明治維新まで10代189年間親藩松平氏の居城となった。 各城の遺材を集めて建てた建物は老朽化が早く、 1739年(元文4年)に大修築。 1874年(明治7年)の廃城令で廃城となり、 1881年(明治14年)に艮櫓、 1901年(明治34年)に乾櫓が解体された。 1883年(明治16年)に地元有志により明石公園として整備が始まり、 1898年(明治31年)皇室御料地、 1918年(大正7年)兵庫県立明石公園として開園。 1957年(昭和32年)に巽櫓・坤櫓が国の重要文化財に指定、 2004年(平成16年)に城跡が国の史跡に指定された。 1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災で石垣が崩落するなど大きな被害を受けたが、 1999年(平成11年)に5年の修復工事を経て全面修復された。 2006年(平成18年)4月6日には日本100名城(58番)に選定されている。
文化的背景と意義
明石城の最大の文化的価値は、 江戸初期の三重櫓2基が並んで現存する稀有な城郭遺構である点にある。 1957年(昭和32年)6月18日、 巽櫓・坤櫓が国の重要文化財に指定され、 2004年(平成16年)9月30日には城跡全体が国の史跡に指定された。 1982年(昭和57年)の改修工事で、 坤櫓は伏見城天守、 巽櫓は船上城天守からの移築であることが判明し、 戦国末期の城郭建築を伝える重要な遺構として再評価された。 また、 築城時の城下町の町割りに剣豪・宮本武蔵が関わったことは『赤石市中記』『播磨鑑』『播州明石記録』『小笠原忠真一代覚書』などの史書に記録され、 武蔵ゆかりの地として剣道・武道愛好家の聖地にもなっている。 第5代藩主・松平信之の代に城内十景が選ばれ「喜春城(きしゅんじょう)」の雅称が生まれた。 1898年の皇室御料地指定、 1918年の県立公園開園を経て、 中堀内側は日本さくら名所100選に指定され、 関西屈指の花見の名所として親しまれる。 2018年にはNHK「歴史秘話ヒストリア」で江戸初期の大工頭・中井正清考案の統一規格櫓建築の典型例として取り上げられ、 城郭研究の重要対象としての位置づけも確立した。 築城400周年を記念して2019年に大規模な漆喰塗替えと樹木伐採が行われ、 明石市は太鼓門・櫓・家老屋敷・土塀の木造復元計画も進めている。
建築的詳細
明石城は人丸山(赤松山)を活用した連郭梯郭混合式の平山城で、 本丸を中心に東に二の丸・東の丸、 南に三の丸、 西に稲荷郭を配する。 西は明石川を自然の外堀、 南は運河を掘って港(現明石港)を兼ねた外堀、 北は鴻の池(剛の池)と自然林・谷筋で防備を固めた。 本丸の主郭部の石垣・土塁・堀は徳川幕府直営、 三の丸・町屋は小笠原氏と幕府の共同事業で進められた。 本丸西南の天守台は東西約25メートル・南北約20メートル・面積約152坪と5重天守級の規模を持つが、 天守は建てられず四隅に三重櫓が配置された。 現存する巽櫓・坤櫓はともに層塔型3重3階。 巽櫓は桁行5間・梁間4間・高さ7間1寸、 入母屋造で妻部が東西を向き、 旧船上城天守からの移築と判明している。 坤櫓は桁行6間・梁間5間・高さ7間2尺9寸、 入母屋造で妻部が南北を向き、 旧伏見城天守からの移築と判明、 『日本城郭大系』では「天守の代用」と位置づけられる。 1982年の改修で2基とも来歴が解明された。 破風の方向が両櫓で異なる珍しい意匠で、 江戸初期の大工頭・中井正清が考案した統一規格の典型例とされる。 1995年の阪神・淡路大震災で被害を受けた石垣は、 5年の修復工事で櫓を曳家で移動・土台補修・櫓を元位置に戻す手法を経て、 1999年に修復完了。 同時に巽櫓・坤櫓を結ぶ土塀も木造復元された。