岡山城
丸の内 · JP
黒漆塗が放つ威厳、白鷺の姫路と対をなす漆黒の烏城天守と日本三名園後楽園
岡山県岡山市の旭川畔に立つ岡山城は、宇喜多秀家が1597年に完成させた4重6階の黒い天守を持つ近世城郭。白鷺城・姫路と対比される黒い下見板から「烏城」と呼ばれ、隣接する後楽園と合わせて日本三名園と国宝級の景観を構成する。
ベストシーズン・ベストタイム
後楽園と烏城公園の桜並木と黒天守の対比が映え、岡山城桜まつりが開かれる絶頂期
★★★★★
後楽園の幻想庭園ライトアップが幻想的、夏休み夜間営業の岡山納涼花火と組合せ可
★★★★☆
後楽園の紅葉と黒い天守のコントラストが映え、桜期より人が少なく落着いた撮影が可能
★★★★★
後楽園のタンチョウ放鳥が冬の風物詩、黒天守と雪のコラボも狙える希少な季節
★★★☆☆
見どころ TOP 3
1.黒漆下見板の烏城天守
4重6階の複合式望楼型天守は黒漆塗の下見板で全面を覆い、初重平面が歪んだ多角形を持つ独特の意匠。1966年再建のRC造ながら、創建当時の金鯱と桐紋瓦が秀家時代の威容を蘇らせている。
旭川対岸の月見橋上流から黒い天守と旭川の流れを縦構図で
2.月見櫓 (戦災を免れた国重文)
本丸中の段北西隅に立つ月見櫓は1620年代池田忠雄時代の創建で、空襲を免れた現存遺構。一部地下付き総白漆喰塗籠の二階建てで、城外から二層・城内から三層に見える独特の構造を持つ。
本丸中の段の北側石垣下から見上げる構図、午前の順光が映える
3.後楽園から望む漆黒の烏城
日本三名園の一つ後楽園は岡山城の防備用郭として綱政が14年かけ造営した池泉回遊式庭園で、芝生越しに望む黒い天守は岡山随一の景観。早朝の朝霧と組み合えば一幅の絵となる。
後楽園の沢の池畔から芝生と天守を横長構図で、早朝7時頃が朝霧で幻想的
物語・伝説
こんな人におすすめ
現地で知るべき豆知識
- 1.後楽園と岡山城の共通券は単独購入より100円程度安く、両所を1日で巡る予定なら城内入口で必ず共通券を選ぶこと。徒歩2-3分の月見橋で直接繋がるため最短回遊経路となる
- 2.本丸中の段に現存する月見櫓は通常非公開だが、春秋の特定週末のみ内部公開がある。岡山市公式サイトでスケジュール確認、限定公開は櫓内の構造を間近で見られる貴重な機会
- 3.幻想庭園 (夏8月・秋11月のみ夜間ライトアップ) は後楽園と岡山城が同期して照明されるイベントで、夜の烏城は昼とは全く別物。後楽園正門から入って沢の池ルートが定番
訪問情報
- アクセス
- JR岡山駅から路面電車「東山」行きで5分の「城下」電停下車徒歩10分、または駅から徒歩約25分。新幹線のぞみ停車駅で大阪から約45分。
- 所要時間
- 天守と本丸見学で1.5時間、後楽園含めて半日が目安。
- 予算目安
- 天守入場料 大人400円・小人100円。後楽園共通券 大人720円。(2024年時点)
周辺観光
徒歩2-3分の月見橋を渡ると後楽園 (日本三名園) で共通券で巡れる定番ルート。 RSK山陽放送・林原美術館・岡山市民会館は二之丸跡に立地し岡山県立図書館も近接、岡山駅周辺の商業地と組合せて1日で完結する。 車30分で吉備津神社、新幹線で30分の倉敷美観地区も組合せ可能。
詳しく知る
時間のある方向けの詳細情報。
年表
- 1346年
石山台に砦
南北朝時代正平年間、名和氏の一族・上神高直が石山台に小規模な砦を築いたのが起源 (「備前軍記」)
- 1573年
宇喜多直家入城
天正元年、宇喜多直家が居城を亀山城から石山城に移し改築と城下町整備を開始、信長安土城より3年早い
- 1590-1597年
宇喜多秀家の大改修
豊臣秀吉の養女・豪姫を娶った秀家が8年がかりで岡山に本丸と4重6階の金箔瓦天守を完成させた
- 1600年
関ヶ原と宇喜多改易
関ヶ原で西軍主力となった秀家は八丈島に流刑、宇喜多家は改易され小早川秀秋が入城
- 1615年
池田忠雄の縄張り完成
元和元年、池田忠雄が淡路から31万5000石で入封、本丸中の段拡張と月見櫓創建で縄張りが完成
- 1687年
後楽園造営開始
池田綱政が郡代津田永忠に命じて14年がかりで後楽園を造営、日本三名園の一つとなる
- 1873年
廃城令
明治6年廃城令により順次建物取壊と堀埋立が進み、明治15年頃には天守・月見櫓・西之丸西手櫓のみが残った
- 1931年
旧国宝指定
昭和6年、天守が旧国宝に指定され、明治の取壊危機を経て文化財として国の保護対象となった
- 1945年6月
岡山大空襲
6月29日の岡山大空襲で天守・石山門が焼失、月見櫓と西之丸西手櫓のみが現存遺構として残った
- 1950年
重要文化財指定
文化財保護法施行に伴い、焼け残った月見櫓と西之丸西手櫓が国の重要文化財に指定された
- 1964-1966年
天守RC造再建
昭和39-41年、天守がRC造で再建され不明門・廊下門・六十一雁木上門・塀の一部も復元された
- 1987年
国史跡指定
「岡山城跡」として国の史跡に指定、本丸を中心とした遺構が公的に保護対象となった
- 1996年
築城400年記念事業
創建時に金鯱が載って金烏城と呼ばれた逸話に基づき、天守に金鯱が復元された
- 2006年
日本100名城選定
財団法人日本城郭協会により日本100名城の70番に選定、観光案内の標準資料に掲載された
- 2022年
令和の大改修完了
天守内部の全面リニューアルが完了、烏城バーや360度プロジェクションマッピング展示が開設
歴史をもっと深く
岡山城の歴史は南北朝時代の正平年間 (1346-1369年) に名和氏の一族・上神高直が石山台に砦を築いたことに始まる。 戦国時代の大永年間 (1521-1528年) には金光氏が居城とし金川城主松田氏に仕えていた。 元亀元年 (1570年)、宇喜多直家が金光宗高を謀殺してこの地を支配下に置き、天正元年 (1573年) に居城を亀山城から石山城に移して改築と城下町整備を始めた。 直家は備前福岡・備前西大寺の商人を呼び寄せて流通主導の経済振興を推進、信長の安土築城より3年早い近世城郭への道を歩んだ。 直家の子・宇喜多秀家は豊臣秀吉の養女・豪姫を娶り57万4000石の大大名となり、天正18年-慶長2年 (1590-1597年) の8年に渡る大改修で岡山に本丸を構え、本段に金箔瓦を使用した4重6階の壮麗な望楼型天守を建てた。 旭川本流を城郭の北東に沿わせて天然の堀とした縄張りは秀吉の意向が大きく働いたと言われる。 慶長5年 (1600年) 関ヶ原の戦いで西軍主力となった秀家は八丈島に流刑、宇喜多家は改易となり小早川秀秋が備前美作52万石で入城した。 秀秋は本丸中の段拡幅と外堀「廿日堀」を20日で完成させたが慶長7年 (1602年) に急死し小早川家は断絶。 慶長8年 (1603年) からは姫路城主池田輝政の次男・忠継、その弟・忠雄が31万5000石で領主となり、元和元年 (1615年) 忠雄の代に本丸中の段拡張と月見櫓・西之丸西手櫓の創建で岡山城の縄張りが完成。 寛永9年 (1632年) 因幡鳥取から池田光政が31万5000石で入封して以降、幕末まで光政系池田氏の居城となった。 貞享4年 (1687年) から光政の子・綱政が14年かけて後楽園を造営、水戸偕楽園・金沢兼六園と並ぶ日本三名園の一角となった。 明治6年 (1873年) の廃城令で多くの建物が取り壊され、昭和20年 (1945年) 6月29日の岡山大空襲で天守・石山門が焼失、月見櫓と西之丸西手櫓のみが現存遺構として残り国重要文化財に指定された。 昭和39-41年 (1964-1966年) に天守がRC造で再建、平成8年 (1996年) の築城400年記念事業で創建時の金鯱が復元され、平成18年 (2006年) には日本100名城70番に選定された。
文化的背景と意義
岡山城の最大の特色は黒漆塗の下見板に覆われた天守外観で、その印象から「烏城 (うじょう)」、創建当時は金箔瓦が用いられたことから「金烏城 (きんうじょう)」とも呼ばれる。 隣県の白漆喰総塗込めの姫路城が「白鷺城」と呼ばれるのと対をなし、山陽道を挟んだ二城の対称性は日本城郭史の象徴的構図となっている。 戦災を免れた月見櫓 (本丸中の段北西隅、池田忠雄時代1620年代創建) と西之丸西手櫓は1950年文化財保護法施行により国重要文化財に指定、本丸跡を含む地域は1987年に「岡山城跡」として国の史跡に指定された。 2006年の日本100名城選定 (70番) は財団法人日本城郭協会による近世城郭の評価で、明治の廃城令と空襲を経ても文化財として保存された価値が認められた。 隣接する後楽園は水戸偕楽園・金沢兼六園と並ぶ日本三名園として国の特別名勝、城と庭園が一体となった景観は岡山観光の中核を担う。 2020年東京オリンピック聖火リレーのセレブレーション会場となり、城と聖火を組合せた映像で国内外に発信された。
建築的詳細
岡山城は梯郭式縄張りの平山城で、岡山・石山・天神山と連なる丘陵地に三段の城郭を西側に展開する。 本丸北東の防備が薄いため旭川流路を変更して天然の堀とし、後楽園が郭の代用とされたとも言われる。 天守は4重6階の複合式望楼型でRC造再建 (1966年)、出入口は付属する塩蔵に設けられたが再建時に天守台に正面入口が追加された。 初重平面形状が歪んだ多角形をしており、安土城天主あるいは羽柴秀吉の大坂城天守を模したという2説がある。 屋根に金鯱と桐紋瓦を載せた意匠は1996年の築城400年記念事業で創建時の威容を復元したもの。 月見櫓 (国重文) は本葺総白漆喰塗籠の二階建で一部地下付き、城外から二層・城内から三層に見える特異な構造で、池田忠雄期の創建以来戦災を免れた現存遺構である。 石垣は野面積を主体としつつ宇喜多期の高石垣と池田期の整形積が混在し、特に本丸下の段の高石垣は近世城郭の典型的な打込接ぎが観察できる。