小田原城
小田原市 · JP
難攻不落の北条五代から城下9キロを囲む総構へ、関東屈指の戦国の名城
神奈川県小田原市に立つ小田原城は、戦国時代に5代100年続いた後北条氏の本拠地として上杉謙信や武田信玄の攻撃を退け、豊臣大坂城を凌ぐ総延長9キロの総構で天下の城として恐れられた関東屈指の平山城である。
ベストシーズン・ベストタイム
城址公園内に約320本の桜が咲き誇り、白い天守との対比が絶景で花見の名所として賑わう
★★★★★
本丸東堀の花菖蒲園が見頃を迎え、紫陽花とともに梅雨時の彩りを楽しめる隠れた時期
★★★☆☆
城址公園の紅葉と白い天守のコラボが美しく、桜時期より静かで写真愛好家に好まれる季節
★★★★☆
空気が澄み相模湾と富士山の眺望が冴える、年末年始は初日の出スポットとしても人気
★★★☆☆
見どころ TOP 3
1.復興天守閣からの相模湾大パノラマ
1960年に鉄筋コンクリートで復興された3重4階の天守閣は標高約60メートルの本丸に建ち、最上階展望デッキからは相模湾と房総半島、晴天時には伊豆大島まで望める。江戸後期の絵図を元に再建された宝永期の姿で、内部は北条氏資料館となっている。
本丸南東角からの正面ショットが定番、夕暮れ時の海と空のグラデーションが美しい
2.銅門の壮麗な枡形虎口
二の丸の表玄関である銅門(あかがねもん)は、扉に銅板の装飾金具を多用したことから名付けられた1997年復元の渡櫓門。江戸時代の伝統工法を駆使した木造復元で、内部公開日には2階の梁組と職人技を間近で見学できる。
住吉橋を渡り正面から見上げる枡形虎口の重厚な構図が良い
3.常磐木門と石垣の縄張りを歩く
本丸の正門である常磐木門(ときわぎもん)は1971年に復元された巨大な渡櫓門で、傍らに植えられた巨松にちなんで名付けられた。江戸期総石垣造りの本丸石垣と組合せて、関東では珍しい高石垣の戦国城郭の風格を体感できる。
本丸広場側から門と石垣を縦構図で、桜や新緑の季節は色彩のコントラスト抜群
物語・伝説
こんな人におすすめ
現地で知るべき豆知識
- 1.天守閣・常盤木門SAMURAI館・歴史見聞館の3施設共通券(大人800円)を購入すると個別購入より約300円お得、 最初に天守受付で買うと回遊ルートが組み立てやすい
- 2.城址公園南方の石垣山一夜城(秀吉が80日で築いた陣城跡、 国の史跡)は車で15分・徒歩なら90分の絶好の対比スポットで、 ここから小田原城天守を望むと豊臣軍の包囲戦の戦略が体感できる
- 3.8月上旬の小田原ちょうちん夏まつり、 5月上旬の小田原北條五代祭りでは神奈川県下最大級の武者行列・甲冑試着体験ができ、 戦国期から続く城下町の風情を最大限味わえる時期となる
訪問情報
- アクセス
- JR/小田急小田原駅東口から徒歩約10分、 駅から見える天守を目印に城址公園へ直行可。 東京駅から新幹線こだまで約35分、 ロマンスカーで約70分の好アクセス。
- 所要時間
- 天守と本丸で約1.5時間、 城址公園全体と歴史見聞館含めて2-3時間が目安。
- 予算目安
- 天守閣入館料 大人510円・小中学生200円、 3施設共通券 大人800円・小中学生300円。 (2024年時点)
周辺観光
車15分の石垣山一夜城(秀吉が80日で築いた陣城跡、国の史跡)は包囲戦の戦略視点が体感できる絶好の対比スポット。 徒歩15分の小田原文学館や報徳二宮神社、 電車1本で箱根湯本温泉(15分)、 大涌谷・芦ノ湖・箱根神社へも好アクセス。
詳しく知る
時間のある方向けの詳細情報。
年表
- 1416年
大森氏の支配始まる
上杉禅秀の乱で土肥氏が失脚、 駿河国の大森氏が小田原一帯に勢力を広げ、 城の前身を整備する
- 1495年頃
北条早雲の奪取
伊豆を支配する伊勢盛時(北条早雲)が大森藤頼から城を奪い、 旧構を大幅に拡張、 後北条5代の本拠地となる始点
- 1561年
上杉謙信の侵攻
越後上杉謙信が11万(軍記)の大軍で1か月にわたり包囲するが、 北条氏康が籠城で凌ぎ撃退に成功
- 1569年
武田信玄の侵攻
甲斐武田信玄が2万の兵で侵攻、 城は持ちこたえ撤退の武田勢を三増峠の戦いで撃退
- 1590年
小田原合戦と開城
豊臣秀吉が20万超の大軍と石垣山一夜城で包囲、 3か月の籠城戦の末ほぼ無血で開城、 「小田原評定」の故事も生まれる
- 1614年
大久保忠隣の改易
江戸幕府の譜代大久保忠隣が政争で改易、 一時城代支配となり阿部氏・稲葉氏を経て大久保氏が再封
- 1632年
寛永の大改修
藩主稲葉正勝が本丸を中心に総石垣造りへ大改修、 関東では珍しい近世城郭の姿が整う
- 1703年
元禄地震
元禄関東地震で天守・櫓・石垣が倒壊する甚大な被害、 城下町も壊滅的被害を受ける
- 1706年
宝永の天守再建
藩主大久保忠増の指揮で天守を再建、 この宝永再建天守が明治の廃城令まで存続する
- 1870-1872年
明治の廃城
明治新政府の廃城令により天守をはじめ全建造物が取り壊され、 城跡は荒廃に向かう
- 1938年
国史跡指定
本丸・二の丸・八幡山古郭・総構など城跡一帯が国の史跡に指定、 保存事業が本格化
- 1960年
天守閣復興
市制20周年事業として鉄筋コンクリート造で天守閣を復元、 戦後復興の象徴として再生
- 1997年
銅門の木造復元
二の丸表門の銅門を江戸期伝統工法で木造復元、 平成の復元整備事業の象徴となる
- 2006年
日本100名城選定
日本城郭協会選定の「日本100名城」(23番)に選ばれ、 関東屈指の戦国城郭として認知される
歴史をもっと深く
小田原城の起源は平安時代末期、 相模国の豪族土肥氏一族の小早川遠平の居館とされるが、 確実な築城は1416年(応永23年)の上杉禅秀の乱で土肥氏が失脚した後、 駿河国の大森氏が相模に勢力を広げた頃に求められる。 1495年(明応4年)頃、 伊豆を支配する伊勢盛時(後の北条早雲)が大森藤頼から奪取し旧構を大幅に拡張、 ただし盛時自身は韮山城を本拠としたまま亡くなり、 小田原を本格的な本拠としたのは1518年頃に家督を継いだ子の北条氏綱からとされる。 以来、 氏綱・氏康・氏政・氏直の5代約100年にわたり後北条氏は関東に勢力を広げ、 1561年(永禄4年)には越後上杉謙信11万の大軍に1か月籠城して退け、 1569年(永禄12年)には甲斐武田信玄2万の侵攻を受けるが小田原を維持し、 撤退する武田勢を三増峠の戦いで撃退している。 北条氏の城郭整備は早雲奪取直後と1566-1569年の上杉・武田侵攻対応期の2回が主な大改修期で、 とりわけ豊臣秀吉との決戦を見越した1587年からの大規模拡張で総延長9キロの総構を完成させ、 当時豊臣大坂城の惣構を凌ぐ規模となった。 1590年(天正18年)豊臣秀吉が20万を超える大軍で総攻撃を開始、 石垣山一夜城の威圧と支城の各個撃破により北条氏の籠城戦略を挫き、 3か月の包囲の末ほぼ無血で開城させた。 戦後、 城は徳川家康の家臣大久保忠世に与えられ、 江戸時代は譜代大名小田原藩11万3千石の藩庁となる。 2代忠隣が1614年(慶長19年)政争で改易され、 阿部・稲葉氏を経て1686年(貞享3年)大久保氏が10万3千石で再封された。 1632年(寛永9年)からの大改修で総石垣造りに改められたが、 1703年(元禄16年)の元禄地震で天守・櫓が倒壊する甚大な被害を受け、 1706年(宝永3年)に天守が再建された。 この宝永再建天守が明治の廃城令で取り壊されるまで存続する。 1870-72年(明治3-5年)に全建造物が取り壊され、 1923年(大正12年)の関東大震災で残された石垣も大半が崩落した。 1934年(昭和9年)に隅櫓が半分の規模で復興、 1938年(昭和13年)に国の史跡指定、 1960年(昭和35年)に鉄筋コンクリートで天守閣が復元、 1971年(昭和46年)常磐木門、 1997年(平成9年)銅門、 2009年(平成21年)馬出門と段階的な復元整備が進められ、 現在も中世と近世の遺構が並存する全国的にも珍しい城郭として復元事業が続けられている。
文化的背景と意義
小田原城は1938年(昭和13年)に「小田原城跡」として国の史跡指定を受け、 江戸期総石垣造りの近世城郭部に加えて八幡山古郭・総構の中世遺構が並存する全国でも珍しい城郭遺跡として高く評価される。 2006年には日本城郭協会選定の「日本100名城」(23番)に選ばれ、 関東を代表する戦国城郭の一つに位置づけられている。 「小田原評定」の故事は、 1590年の小田原合戦で北条家中の和議派と抗戦派が籠城中に議論を続けて結論を出せなかったことに由来し、 「結論の出ない長談義」の代名詞として現代日本語にも定着している。 戦国大名後北条氏は北条早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直の5代にわたり「公儀の国家」と呼ばれる組織的・近世的な領国経営を展開し、 検地・伝馬制度・撫民政策・寺社統制など、 江戸幕府の支配体制に先行する制度を構築したことで歴史学的にも重要視される。 NHK大河ドラマ「黄金の日日」「秀吉」「真田丸」「おんな城主直虎」など多くの作品で小田原合戦が描かれ、 5月上旬の小田原北條五代祭りは1965年から続く神奈川県下最大級の武者行列が市民に親しまれている。 また毎年8月上旬の小田原ちょうちん夏まつりは「目方より大事な小田原ちょうちん」と謡われた江戸期名物の提灯文化を伝える市民祭で、 城を中心とした城下町文化の継承に大きな役割を果たしている。
建築的詳細
小田原城は北側の八幡山と南側の海岸線、 西の早川を巧みに利用した連郭式平山城で、 中核部を二の丸総堀・三の丸総堀・総構堀の三重で囲んだ全国でも稀な多重防御構造を持つ。 最大の特徴は天正期後半に完成した総延長約9キロの総構で、 八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を土塁と空堀で取り囲み、 山地部の小峰大堀切や桜馬場・稲荷森の遺構に往時の姿が残る。 平地部の近世城郭は1632年の大改修により本丸を中心に東に二の丸・三の丸を重ね、 4方向に屏風岩・小峯・御蔵米曲輪と鷹部・お茶壺・馬屋・弁才天の4小曲輪を馬出として配した縄張りで、 関東地方では珍しい総石垣造りである。 現在の天守閣は1960年に鉄筋コンクリートで復元された3重4階・地上27.2メートル(石垣含む38.7メートル)の宝永再建天守を模した姿で、 最上階に高欄付き廻縁を備える層塔型天守の典型である。 1997年復元の銅門(あかがねもん)は二の丸の表玄関にあたる枡形虎口の渡櫓門で、 扉の装飾金具に銅板を多用したことから名付けられ、 棟梁中島丈夫の指揮による江戸期伝統工法での木造復元として高く評価された。 1971年復元の常磐木門は本丸正門の渡櫓門、 2009年復元の馬出門は二の丸からの大手筋を構成する。 石垣は寛永期の打込接ぎを基本に、 切込接ぎや野面積みの遺構も残り、 関東屈指の戦国・近世城郭遺跡となっている。