中城城
中城村 · JP
ペリー提督も驚嘆した琉球石灰岩のグスク、六郭が連なる世界遺産の名城
沖縄本島中部の標高160mの丘陵に築かれた連郭式山城。東に中城湾、西に東シナ海を望む天然の要害で、14世紀後半に先中城按司が築き、1440年に座喜味城から移った名将護佐丸が六郭の姿に完成させた琉球王国屈指の堅城。
ベストシーズン・ベストタイム
桜と新緑が城壁を彩り、 海風が爽やかで最も歩きやすい絶好の季節。
★★★★★
残暑も和らぎ、 ツワブキの黄花が郭内を染める美ら島100選の名所。
★★★★★
晴天日が多く快適に石垣を歩ける亜熱帯沖縄ならではの観光適期。
★★★★☆
強い日差しで石垣の白さが映えるが、 熱中症と台風に注意が必要。
★★☆☆☆
見どころ TOP 3
1.二の郭の布積み(豆腐積み)石垣
琉球石灰岩を切石にし豆腐のように積み上げた「布積み」の城壁が、緩やかな曲線を描きながら続く。漆喰もセメントも使わず精緻に組み上げられた石垣は、1853年に訪れたペリー提督が日本遠征記で「賞賛すべきもの」と記した琉球建築技術の到達点。
二の郭東面の城壁外側を午前中の順光で。曲線美が際立つ。
2.正門と裏門の石造アーチ門
一の郭に通じる正門は石造アーチ門に改築されたもので、当時の本土にはほぼ存在しない琉球独自の意匠。裏門を含む三つのアーチ門は石を精密に削り合わせた相方積みで構成され、ペリー一行が詳細な報告書を残した建築土木技術の象徴である。
正門を低い位置から見上げ、アーチの曲線と空を切り取る構図。
3.六つの郭が連なる連郭式の全景
南の郭・西の郭・一の郭・二の郭・三の郭・北の郭の六郭が丘陵尾根に沿って連なる。三の郭は新城(みーぐすく)とも呼ばれ、亀甲乱れ積みの相方積みが最も進化した姿を見せる。空から見ると琉球王国最大級のグスクの全容が一望できる。
西の郭の高台から東方向に郭群を見渡すと連郭構造が分かる。
物語・伝説
こんな人におすすめ
現地で知るべき豆知識
- 1.正門から逆順に北の郭→三の郭→二の郭→一の郭と回ると、 野面積み・布積み・相方積みの三つの石積技法が古→新の順に並んで違いがよく分かる。 解説看板も裏門側から濃密になっている。
- 2.城跡東200mに護佐丸の墓(沖縄県指定史跡、 1956年指定)があり、 駐車場から徒歩往復20分。 国指定の中城城跡とは文化財区分が別で、 護佐丸の悲劇を体感できる必訪の歴史スポットである。
- 3.イオンモール沖縄ライカム前からコミュニティバス「グスクめぐりん」が城跡入口直前まで運行しており、 那覇からの公共交通利用者にとって最も楽で快適なアクセス手段になる。
訪問情報
- アクセス
- 那覇空港から車で約45分、 沖縄自動車道北中城IC下車5分。 那覇バスターミナルから東陽バス30番で「中城小学校」下車徒歩30分、 タクシー5分。
- 所要時間
- 見学1.5-2時間、 護佐丸墓と中村家住宅も含めると半日
- 予算目安
- 入場料500円、 駐車場無料、 那覇から往復交通費2000-3000円、 食事1500円程度。 合計4000-5000円が目安。
周辺観光
城跡東200mに護佐丸墓(沖縄県指定史跡)。 徒歩圏に重要文化財・中村家住宅(沖縄に現存する数少ない木造住宅遺構)。 車10分でイオンモール沖縄ライカム、 30分で勝連城跡(世界遺産構成資産)、 40分で首里城跡へ。
詳しく知る
時間のある方向けの詳細情報。
年表
- 14世紀後半
先中城按司による築城
先中城按司が数世代にわたり南の郭・西の郭・一の郭・二の郭の主要部分を築き、 グスクとしての原型を完成させた。
- 1440年
護佐丸による増築
尚泰久王代、 座喜味城主の護佐丸盛春が中城へ移り、 三の郭・北の郭を増築。 相方積みとアーチ門で完成形となった。
- 1458年
護佐丸の自害(護佐丸阿摩和利の乱)
勝連城主阿摩和利の讒言を受けた王府軍に攻められ、 護佐丸は王命に抗わず自害。 中城城は陥落した。
- 1609年
薩摩藩による琉球侵攻
薩摩侵攻後は中城城は番所として使用され、 中国冊封使節来琉時には薩摩役人が城に潜伏した。
- 1853年5月
ペリー艦隊の訪問
米国東インド艦隊司令長官マシュー・C・ペリー提督の一行が来沖し、 中城城の石積技術を高く評価して日本遠征記に記録した。
- 1879年
中城村役場として転用
廃藩置県で沖縄県設置後、 一の郭跡が中城村役場として戦前まで使用された。
- 1945年
沖縄戦での被害
沖縄戦により一の郭の正殿は消失したが、 グスク本体の石積みは比較的良好に残存した。
- 1955年
琉球政府による文化財指定
米軍施政下の琉球政府文化財保護委員会により、 重要文化財(史跡・名勝)に指定された。
- 1956年
護佐丸墓 沖縄県指定史跡
城跡東200mの護佐丸の墓が沖縄県指定史跡として保護された(中城城跡とは別の指定)。
- 1972年5月15日
国の史跡指定
沖縄本土復帰の日に国の史跡に指定。 指定面積110,473平方メートル(うち城郭部14,473平方メートル)。
- 2000年11月
ユネスコ世界遺産登録
首里城跡など他8件とともに「琉球王国のグスク及び関連遺産群」としてユネスコ世界文化遺産に登録された。
- 2006年4月6日
日本100名城選定
日本城郭協会によって日本100名城に選定され、 99番として登録された。
- 2013年
美ら島おきなわ名所100選
沖縄県の「美ら島おきなわ・花と緑の名所100選」にツワブキの名所として選定された。
歴史をもっと深く
中城城の起源は14世紀後半、 先中城按司が数世代にわたり南の郭・西の郭・一の郭・二の郭の主要部分を築いたことに遡る。 1440年(室町時代永享12年)、 琉球王国の尚泰久王代に座喜味城主であった護佐丸盛春が中城へ移り、 三の郭と北の郭を増築して現在の六郭からなる連郭式の姿を完成させた。 1458年(長禄2年)、 勝連城主の阿摩和利が王府に護佐丸謀反を讒言し王府軍を差し向けると、 護佐丸は王軍に抗うことを潔しとせず自害、 城は陥落した。 以後は中城王子の居城となり、 1609年(慶長14年)の薩摩藩による琉球侵攻後は番所として機能、 冊封使節来琉時には薩摩役人が中国側に存在を悟られぬよう城内に隠れ住むという外交的隠蔽の舞台ともなった。 1879年(明治12年)の廃藩置県後は中城村役場として使用され、 第二次世界大戦終盤の1945年(昭和20年)沖縄戦では一の郭の正殿が消失したものの、 グスク本体の石積みは奇跡的に被害を最小限にとどめた。 1955年(昭和30年)に琉球政府文化財保護委員会の重要文化財(史跡・名勝)に指定され、 米軍施政下の沖縄で文化財として保護が始まる。 1972年(昭和47年)5月15日の沖縄本土復帰の日には国の史跡に指定され、 指定面積110,473平方メートル(うち城郭部14,473平方メートル)が法的に保全された。 城郭東200mの護佐丸の墓は1956年に沖縄県指定史跡となり、 中城城跡とは別物として扱われている。 2000年(平成12年)11月には首里城跡など8件とともに「琉球王国のグスク及び関連遺産群」としてユネスコ世界遺産に登録、 2006年(平成18年)には日本100名城99番に選定され、 現在も中城公園として補修・復元工事が継続している。
文化的背景と意義
中城城跡は2000年に首里城跡・今帰仁城跡・座喜味城跡・勝連城跡・園比屋武御嶽石門・玉陵・識名園・斎場御嶽とともに世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」(構成資産9件)の1つとして登録された、 琉球独自の文化と建築技術を象徴する文化財である。 1972年指定の国史跡としては110,473平方メートルが法的に保全され、 2006年の日本100名城選定では99番として全国的にも公認された城郭となった。 城郭東200mに位置する護佐丸の墓は別個に1956年に沖縄県指定史跡として保護されており、 中城城跡(国指定)と護佐丸墓(県指定)は文化財区分上区別されている点に注意が必要である。 1853年5月に来沖した米国東インド艦隊のペリー提督一行は『日本遠征記』で「要塞の資材は石灰石であり、 その石造建築は賞賛すべきものであった」と記し、 西洋人による琉球建築の最初の本格評価として知られる。 また琉球侵攻後の薩摩藩支配下では、 中国冊封使節来琉の際に薩摩役人がこの城に身を潜め琉球独立の体裁を維持するという二重外交の舞台でもあった。 戦災を免れた石積みは「相方積み」の到達点として国内外の城郭研究で参照される基準資料であり、 2013年には「美ら島おきなわ・花と緑の名所100選」にツワブキの名所として選定されている。
建築的詳細
中城城は標高約160mの丘陵尾根に沿って六つの郭が連なる連郭式山城で、 構成は北から北の郭・三の郭・二の郭・一の郭・南の郭・西の郭。 城壁の主材は琉球石灰岩の切石で、 三つの異なる石積技法が同一城内で見られる稀有な例として知られる。 古い南の郭は自然石をほぼ加工せず積む「野面積み」、 一の郭と二の郭は方形に整えた石を水平に重ねる「布積み(豆腐積み)」、 護佐丸が増築した三の郭と北の郭・物見台は石を多角形に削り合わせる「あいかた積み(相方積み・亀甲乱れ積み)」で構成される。 城門のうち裏門と一の郭の二門はアーチ門として築かれ、 沖縄島内で最初期のアーチ構造の事例である。 一の郭は城内最大の面積を持ち、 正殿と護佐丸が宴を催したという観月台が置かれ、 後に間切番所、 明治以降は中城村役場として転用された。 西の郭は東西長120mの長大な郭で兵馬訓練の場とされる。 北の郭は護佐丸の増築時に城郭内に井戸を取り込んだ画期的設計で、 籠城戦に耐える水源を確保した。 鍛冶屋跡のカンジャーガマも郭内に残り、 武具自給の体制が城内で完結していたことを示している。