高知城
丸ノ内 · JP
天守と本丸御殿が共に現存する唯一無二、 土佐24万石の山内一豊が築いた国宝級名城
高知県高知市の大高坂山(標高45m)に立つ高知城は、 江戸時代の天守・本丸御殿・追手門等15棟が全て国の重要文化財として現存する稀有な城。 鷹の羽色の瓦と白壁から「鷹城」とも呼ばれ、 現存天守12城のひとつに数えられる。
ベストシーズン・ベストタイム
桜と現存天守の共演、 ライトアップ「光のおもてなし」開催で夜桜も楽しめる絶頂期
★★★★★
新緑と石垣の苔が映える、 早朝の無料公園散策が涼しく石組みディテール観察に最適
★★★☆☆
紅葉と白壁・鷹の羽瓦が織りなす錦秋の景観、 桜期より静かで写真愛好家に穴場
★★★★☆
雪化粧した天守は数年に一度の絶景、 朝霧に浮かぶ姿は土佐の隠れた冬景
★★★☆☆
見どころ TOP 3
1.現存天守と本丸御殿の唯一の共演
独立式望楼型4重6階・高さ18.5mの現存天守は、 隣接する本丸御殿(懐徳館)と共に当時の姿で現存する全国唯一の組合せ。 1747年再建の天守は焼失前の様式を木造で忠実に復元、 大小14室の御殿内部は山内一豊と千代夫人の暮らしを偲ばせる。
三の丸からの石段越し正面ショットが定番、 朝の順光が映える
2.築城以来の枡形虎口を擁する追手門
江戸時代から焼失を免れた追手門は、 内枡形虎口の巨大石垣に三方から囲まれた稀有な防御構造を残す。 1727年の大火・廃城令・大空襲の3度の危機をくぐり抜けた重要文化財で、 門越しに見上げる天守の写真は高知城の象徴的構図。
板垣退助銅像越しに門と天守を縦構図で重ねる
3.本丸全建造物が完存する全国唯一の城
本丸の建造物が完全に残るのは全国で高知城のみ。 天守・本丸御殿・納戸蔵・黒鉄門・東西多聞・詰門・廊下門・矢狭間塀など15棟全てが重要文化財として現存する稀有な姿で、 高知公園として無料開放され石垣群を含めた縄張りを上から見渡せる。
本丸高所の北面または東面から俯瞰、 夕方の斜光で立体感が出る
物語・伝説
こんな人におすすめ
現地で知るべき豆知識
- 1.天守入口手前の詰門は二階が二の丸と本丸を結ぶ廊下橋で、 一階は敵を直進させない屈曲構造になっている。 観光客の多くが見落とす本丸防御の要で、 内部を歩くと縄張り設計者の知恵が肌で感じられる
- 2.板垣退助銅像の脇から登る石段は観光ルートから外れた裏道で、 二の丸石垣の長宗我部時代の野面積み残存部分を間近に見られる。 コンクリート補強された苔むす石垣が一豊以前の城の記憶を伝える
- 3.毎週日曜開催の追手筋日曜市は約300年続く全国最大級の街路市で、 城下から1km続く露店で土佐の食材と文土を体感できる。 朝6時開始で午前中の入城前に立ち寄ると効率的
訪問情報
- アクセス
- JR高知駅から徒歩約25分、 または駅前から路面電車「はりまや橋」経由「高知城前」下車徒歩5分。 高知龍馬空港からバスで約35分。
- 所要時間
- 天守と本丸御殿で1.5時間、 城下散策含めて半日が目安。
- 予算目安
- 天守・本丸御殿入館料 大人420円・18歳未満無料。 城内公園は無料。 (2024年時点)
周辺観光
城下徒歩圏には板垣退助生誕地・自由民権記念館、 約300年続く追手筋日曜市が広がり、 路面電車1本でひろめ市場・はりまや橋・五台山竹林寺へ。 車30分で坂本龍馬ゆかりの桂浜・龍馬記念館、 高知県立美術館・牧野植物園へも足を伸ばせる土佐観光の起点となる。
詳しく知る
時間のある方向けの詳細情報。
年表
- 1338年
大高坂山城の築城
南北朝時代、 大高坂松王丸が南朝方の城として築城し、 後醍醐天皇の第7子・満良親王を迎えた
- 1341年
大高坂山城の落城
松王丸が北朝方の細川禅定・佐伯経定との戦に敗れ落城、 その後長らく廃城となった
- 1587年
長宗我部元親の再築城
土佐の戦国大名・長宗我部元親が大高坂山に再び築城を試みるが水害で頓挫
- 1601年
山内一豊の入封
関ヶ原の戦後、 山内一豊が掛川城から土佐24万2千石の藩主として入り、 大高坂山での築城を決断
- 1603年
本丸完成・一豊入城
百々綱家を総奉行に2年余の突貫工事で本丸が成り、 真如寺僧・在川が「河中山城」と命名
- 1610年
「高智山城」へ改名
度重なる水害から2代藩主忠義が竹林寺僧空鏡に依頼し文殊浄土に因む名へ改名、 後に省略され高知城に
- 1611年
三ノ丸竣工・縄張完成
築城最大の難関だった三ノ丸が竣工し、 一豊の構想した高知城全体の縄張りがついに完成を迎えた
- 1727年
享保の大火
城下の大火で天守を含む追手門以外の建物がほぼ焼失、 再建が始まるのは2年後となった
- 1747年
現存天守の再建
8代豊敷の代に焼失前の様式を忠実に木造復元、 これが現在まで残る現存天守となる
- 1873年
廃城令の危機
陸軍省と大蔵省の対立で廃城令の対象外となり大蔵省所管で廃城、 翌年に高知公園として一般開放
- 1934年
旧国宝指定
天守ほか15棟が国宝保存法に基づく国宝に指定され、 国の保護下に入る
- 1945年
高知大空襲を免れる
7月の高知大空襲で周辺が焦土となるが、 建造物群は奇跡的に焼失を免れた
- 1950年
重要文化財指定
文化財保護法施行に伴い15棟が改めて国の重要文化財に指定された
- 1959年
国史跡指定
6月18日に城域全体が国の史跡に指定、 公園として整備が進む
- 2006年
日本100名城選定
4月6日に日本100名城84番に選定され、 全国の城郭ファンの聖地となる
歴史をもっと深く
高知城の歴史は南北朝時代に遡り、 大高坂松王丸が大高坂山城を築いて南朝方として後醍醐天皇の第7子・満良親王を迎えた延元3年(1338年)に始まる。 興国2年(1341年)に松王丸が北朝方と戦って敗れた後、 城は廃城となり長らく文献から姿を消す。 天正15年(1587年)、 土佐の戦国大名・長宗我部元親が大高坂山に再び築城を試みるが、 鏡川・江ノ口川のデルタ地帯による水害に悩まされ、 天正19年(1591年)に浦戸城へ本拠を移した。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで元親の子・盛親が西軍に与し改易され、 翌慶長6年(1601年)、 山内一豊が掛川城から土佐一国24万2千石の藩主として入封した。 一豊は浦戸の地が狭隘なため大高坂山での築城を決断、 関ヶ原の咎で京都蟄居中だった築城名手・百々綱家を家康に嘆願して赦免させ6千石で召し抱え総奉行に任じた。 百々は穴太衆を率いて石垣を組み、 一日1200人超の工夫と山内家臣団・子供までを動員した突貫工事で慶長8年(1603年)に本丸と二ノ丸石垣を完成、 旧暦8月に本丸が成り一豊が入城した。 真如寺僧・在川により当初「河中山城」と命名されたが、 度重なる水害から慶長15年(1610年)に2代藩主・忠義が竹林寺僧・空鏡に文殊浄土に因み「高智山城」へ改名させ、 後に省略され「高知城」となった。 慶長16年(1611年)に三ノ丸が竣工し縄張りが完成。 享保12年(1727年)、 城下の大火で追手門以外の建物がほぼ焼失するが、 8代豊敷が深尾帯刀を普請奉行に任じ享保14年(1729年)に再建着手、 寛延2年(1749年)に天守等が完成し宝暦3年(1753年)に再建を完了した。 現存天守は延享4年(1747年)再建のもので、 焼失前の様式を忠実に木造復元している。 明治6年(1873年)の廃城令では帰属を巡る陸軍省・大蔵省の対立から対象外となり大蔵省所管で廃城となるが、 翌7年に高知県管轄の公園として一般開放、 明治9年に本丸15棟以外が払下げ取壊されたものの中核建造物は奇跡的に温存された。 昭和9年(1934年)に天守等15棟が旧国宝指定、 昭和20年(1945年)の高知大空襲も奇跡的に焼失を免れ、 昭和25年(1950年)の文化財保護法施行で改めて国の重要文化財に指定。 昭和34年(1959年)に国の史跡指定、 平成18年(2006年)に日本100名城84番に選定され、 令和2年(2020年)から3年にかけて天守高欄の改修工事が行われた。
文化的背景と意義
高知城は江戸時代に築かれた天守が現存する「現存天守12城」のひとつで、 天守・本丸御殿・追手門・黒鉄門・詰門・廊下門・西多聞・東多聞・納戸蔵・天守矢狭間塀(4棟)・黒鉄門矢狭間塀(2棟)・追手門矢狭間塀(2棟)の合計15棟が国の重要文化財に指定されている。 とりわけ本丸の建造物が完全に残るのは全国で高知城のみ、 さらに天守と本丸御殿(懐徳館)が両方現存する唯一の城でもあり、 江戸期大名居館の姿を立体的に体感できる希少な遺構として全国の城郭研究者に重視されている。 「鷹城」の異称は瓦や壁の色が鷹の羽の色に似ているとされたことに由来し、 姫路城の「白鷺城」と対比される愛称として土佐人に親しまれる。 昭和34年(1959年)の国史跡指定、 平成18年(2006年)の日本100名城84番選定、 四国八十八景27番選定など複数の文化的評価を受け、 板垣退助ゆかりの地・自由民権運動発祥地としての近代史的意味と併せて、 土佐の歴史・文化・観光の中核を担っている。
建築的詳細
高知城の縄張りは大高坂山(標高45m)を活用した梯郭式平山城で、 本丸を頂点に二ノ丸・三ノ丸・西ノ丸が階段状に配置され、 鏡川と江ノ口川が外堀の役割を果たす立地である。 現存天守は独立式望楼型4重6階、 高さ18.5m、 1重目の屋根を腰庇として3重6階と数える説もある。 平面は初層と2層を総二階造りで8間×6間、 3層と4層を4間四方、 5層と最上層は3間四方と階を昇るごとに収束する古風な復古型様式。 南北に千鳥破風・東西に唐破風を配し、 最上階の高欄は徳川家康の許可を得て造られたという伝承を持つ。 天守台を設けず本丸地盤上に直接礎石を敷いて建てる慶長期の様式で、 御殿に隣接して建つ構えは本丸を最後の防衛拠点とする思想を示す。 本丸御殿(懐徳館)は一重・入母屋造・本瓦葺で、 大小14室の藩主居室(8畳上段ノ間に床・違棚・天袋・帳台構を備える)、 武市甚七作の「波形刳貫き欄間」彫刻、 享保再建時には財政難から金箔を諦め白壁とした内装が特徴。 追手門は内枡形虎口の巨大石垣に囲まれ三方から敵を攻撃できる構造で、 詰門は本丸と二ノ丸を結ぶ二階櫓門の廊下橋形式。 石垣は野面積み・打込接ぎ・切込接ぎが時代別に観察でき、 二ノ丸下層には長宗我部時代の石垣がコンクリート補強で残存する。