バスティーユ牢獄
4区 · FR
フランス革命の引き金となった、 解体された巨城の跡に立つ自由の広場
パリ4区サン・タントワーヌ地区にそびえていた8塔の中世要塞バスティーユ牢獄は、 1789年7月14日の民衆襲撃で陥落し翌年から解体された。 現在は広場と七月革命記念柱だけが残り、 自由の象徴として旅人を迎える。
ベストシーズン・ベストタイム
革命記念日(パリ祭)の前夜祭・軍事パレード・花火が広場で行われ、 街全体が祭典空気に包まれる
★★★★★
新緑のマロニエ並木と穏やかな気候で散策に最適、 街路カフェのテラス席が開く季節
★★★★☆
黄葉と斜光で円柱の金像が美しく輝く、 観光客が落ち着く撮影好機の季節
★★★★☆
クリスマス市と夜のライトアップで広場が温かく照らされる、 ただし風が強いことも
★★★☆☆
見どころ TOP 3
1.七月革命記念柱(Colonne de Juillet)
広場中央にそびえる高さ47メートルの円柱は、 1830年七月革命の犠牲者を悼む記念柱。 頂上には金色に輝く「自由の精霊」像が翼を広げ、 革命都市パリの自画像とも言える鋭い輝きを放っている。
オペラ・バスティーユ前から夕日を背景に逆光シルエットで
2.バスティーユ広場(Place de la Bastille)
牢獄解体後の跡地に整備された円形広場は、 4区・11区・12区の境に位置するパリ東部の交通結節点。 ロータリーの石畳には牢獄の城壁線が白い舗石で印され、 失われた要塞の輪郭を今に伝える歩行記憶装置である。
ロータリー外周の歩道から円柱と石畳ラインを縦構図で
3.アンリ・ガリ広場の城壁遺構
セーヌ川沿いのアンリ・ガリ広場(Square Henri-Galli)に、 メトロ1号線建設時に発見された自由塔の基礎石が移設保存されている。 革命後の徹底解体を生き延びた数少ない現物で、 中世築城技術の石積みを間近で見られる。
午前光の斜光で苔と石の質感を低めの目線から
物語・伝説
こんな人におすすめ
現地で知るべき豆知識
- 1.メトロ1号線バスティーユ駅のボビニー方面行きホームには、 工事中に発見された城壁の現物遺構が露出展示されており、 駅構内で無料で見られるパリ屈指の歴史展示スポットとなっている
- 2.広場の石畳に刻まれた白舗石ラインこそが牢獄の城壁線で、 円形ロータリーをぐるりと一周歩くと中世要塞の正確な輪郭をなぞる体験ができる。 多くの観光客が見落とす隠し演出である
- 3.7月14日は世界的に有名だが、 前日13日夜の「消防士の舞踏会」(Bal des Pompiers)は近隣消防署で深夜まで無料開催され、 パリ市民と一緒に革命前夜を祝う体験ができる穴場行事
訪問情報
- アクセス
- メトロ1・5・8号線「Bastille」駅直結。 シャルル・ド・ゴール空港からRER B + メトロで約60分、 オルリー空港からは約45分。 マレ地区・ノートルダムから徒歩15-20分。
- 所要時間
- 広場と円柱・遺構巡りで1時間、 オペラ・バスティーユ見学含めて半日が目安。
- 予算目安
- 広場・記念柱は無料。 オペラ見学ツアー17ユーロ。 周辺カフェ昼食15-25ユーロ。 (2024年時点、 公式サイトで確認推奨)
周辺観光
徒歩10分のマレ地区はパリ最古の街並とユダヤ人街、 美術館が集まる人気エリア。 徒歩15分のヴォージュ広場はパリ最古の王立広場、 ヴィクトル・ユゴー記念館もある。 徒歩20分でノートルダム大聖堂とシテ島、 メトロ5分でリヨン駅・ベルシー地区にもアクセス可能。
詳しく知る
時間のある方向けの詳細情報。
年表
- 1357年
起源・2塔築造
パリ商人組合長エティエンヌ・マルセルがサン・タントワーヌ門に2塔と幅24mの濠を備えた要塞門を築く
- 1370年
本格要塞化開始
シャルル5世がユーグ・オーブリオに8塔の方形要塞建設を命じ、 百年戦争中の英軍襲撃に備える
- 1417年
国家監獄化
本来の軍事要塞から国家監獄へと役割が転換、 以降約4世紀にわたり政治犯収容の場となる
- 1659年
州刑務所として確立
リシュリュー以降の「勅命逮捕状」運用が定着し、 名実ともに正規の国事犯監獄として機能
- 1717年
ヴォルテール収監
21歳のヴォルテールが摂政を諷刺する詩で告発され収監、 のち獄中で文豪の筆名を確立した
- 1789年7月14日
バスティーユ襲撃
パリ民衆千人が火薬を求めて要塞を襲撃、 司令官ローネー侯爵が処刑され7名の囚人が解放された
- 1790年
解体事業開始
パリ市の正式決定で要塞解体が始まり、 石材で作った記念ミニチュアが革命の土産物となる
- 1806年
解体完了
16年の解体工事が完了、 跡地は円形広場となり次第にパリ東部の交通結節点として整備
- 1840年
七月革命記念柱完成
1830年七月革命10周年に高さ47mの記念柱が広場中央に完成、 自由の精霊像が頂を飾る
- 1880年
革命記念日制定
第三共和政が7月14日を国民の祝日「パリ祭」に制定、 以降軍事パレードと花火が恒例となる
- 1899年
メトロ工事で遺構発見
メトロ1号線建設中に自由塔の基礎石が発見、 一部はアンリ・ガリ広場に移設保存される
- 1989年
オペラ・バスティーユ開館
革命200周年を記念しミッテラン大統領のもと「人民のオペラ」として広場東側に開館
歴史をもっと深く
バスティーユの起源は1357年、 パリ商人組合長エティエンヌ・マルセルがサン・タントワーヌ門に2基の石塔と幅24メートルの濠を備えた要塞門「バスティーユ」を建設したことに始まる。 1369年、 シャルル5世は百年戦争中の英軍襲撃を警戒し、 ユーグ・オーブリオに本格要塞化を命じた。 1370年から本格工事が始まり、 既存2塔の背後にさらに2塔、 北側に2塔、 南側に2塔を加えて計8塔の方形要塞が完成、 約30メートルの垂直城壁と濠が囲んだ。 15世紀のブルゴーニュ派とアルマニャック派の抗争、 16世紀の宗教戦争で軍事的役割を果たした後、 1417年に初めて国家監獄として使用される。 ルイ13世時代に宰相リシュリューが「勅命逮捕状(lettre de cachet)」によって政敵を収容する正式な国事犯監獄として確立し、 1659年以降は専ら州刑務所として機能した。 ルイ14世はナント勅令廃止後にプロテスタント、 ヴォルテール等の知識人、 サド侯爵などを収容、 1789年の襲撃までに通算5,279人の囚人が門をくぐった。 ただし実態は意外と温和で、 部屋は5m四方・天井8m、 囚人は私物の家具・コック・召使いを持ち込め、 食事は昼3皿・夕5皿の豪華さだった。 1789年7月14日、 国家財政危機と国民議会成立の中で蜂起したパリ民衆約千人が、 火薬を求めて要塞を襲撃。 司令官ベルナール=ルネ・ド・ローネー侯爵は降伏後に群衆に処刑され、 残り7名の囚人は解放された。 翌7月15日、 パリ市当局は解体決定を下し、 民間事業として1790年から本格解体開始、 1806年に完了した。 解体作業中、 石材で作られた「バスティーユ牢獄ミニチュア」が革命の記念土産として全国に売られ、 ボーマルシェやミラボーがその様子を記録した。 現在は跡地が円形のバスティーユ広場となり、 1840年7月革命10周年に七月革命記念柱が完成、 メトロ・バスティーユ駅の壁面遺構と、 1899年メトロ工事中に発見されアンリ・ガリ広場に移設された自由塔の基礎石が、 失われた要塞の物証として残されている。
文化的背景と意義
バスティーユ牢獄は単なる中世要塞ではなく、 18世紀以降のフランス政治思想史において「絶対王政の専制の象徴」として圧倒的な記号性を獲得した稀有な建造物である。 ヴォルテールやマルキ・ド・サドなど著名な囚人の自伝が18世紀を通じて流布し、 ルイ16世時代には実際の囚人数が激減していたにもかかわらず、 民衆の心象では「自由を奪う恐怖の城」として肥大化していた。 1789年7月14日の襲撃事件は、 実態的には火薬庫襲撃に過ぎなかったが、 民衆運動が王権の象徴を物理的に破壊した出来事として欧州中の革命的知識人を熱狂させ、 のちにヘーゲルや若きウィリアム・ワーズワースが「自由の夜明け」と称えた。 1880年、 第三共和政は7月14日を国民の祝日「La Fête nationale」(通称「パリ祭」)に制定、 以降毎年シャンゼリゼ通りの軍事パレードと広場の花火大会が共和国の自己再確認の儀式となった。 1989年、 革命200周年を記念してミッテラン大統領のもとオペラ・バスティーユが広場に隣接して開館、 「人民のオペラ」の理念で文化的アイコンの継承を果たした。 ディケンズ『二都物語』、 ユゴー『93年』、 トルストイの歴史論考、 アナトール・フランス『神々は渇く』など、 革命を描いた世界文学の根幹的舞台として影響力は今も続いている。
建築的詳細
中世要塞バスティーユは1370-1383年の主工事で完成した、 当時の城郭建築理論を体現する革新的な方形プラン要塞だった。 縦約66メートル、 横約34メートルのほぼ長方形配置に、 各角と各辺中央に直径10-12メートルの円塔を計8基配置、 すべての塔頂が同じ高さ24メートルで連結胸壁を成すという、 従来の不均一なドンジョン中心配置からの大胆な脱却を示した。 8塔それぞれに塔頂テラスが設けられ、 全周360度の射界を確保したことで、 死角のない火力配置を実現、 この設計思想はフランスのみならずイングランドのボディアム城など欧州各地に模倣された。 厚さ3-4メートルの垂直石灰岩壁は当時最強の砲撃耐久を誇り、 外側を幅25メートル・深さ8メートルの濠が囲み、 跳ね橋2基(東のサン・タントワーヌ門側、 北のアントレ門側)だけが侵入口だった。 内部は5層構成で、 地下に水槽と火薬庫、 1階に守備兵居住区、 2-4階に囚人房と司令官居室、 屋上テラスに大砲群を配置。 各塔最上階の囚人房は「カルカン」と呼ばれる八角形の特殊房で、 中央に唯一の窓があり鉄格子越しに薄い光が差し込む構造だった。 1789年解体時の石材は約2万トンと推計され、 一部はコンコルド広場の橋(現コンコルド橋)建設に転用されたほか、 ミニチュアや記念品として全国に分散した。