ボディアム城
ボディアム · GB
水鏡に映る四隅の塔、見せる城として築かれた中世イングランドの絵姿
イングランド南東部イースト・サセックス州に立つボディアム城は、1385年に騎士エドワード・ダリングリッジが百年戦争のフランス侵攻に備えて築いた水堀城郭。天守を持たず四隅に円塔を配する四辺形プランは、戦闘より富と地位の誇示を狙った「見せる城」の代表例である。
ベストシーズン・ベストタイム
新緑と桜が堀畔に咲き、 朝霧の出る朝は逆さ城が水面に映る撮影最盛期
★★★★★
中世フェア・剣闘実演など季節イベントが多く家族連れに人気の繁忙期
★★★★☆
黄葉と石塔の対比が美しく観光客が減って静かに堀畔散策ができる穴場
★★★★☆
霜の朝は石壁と堀の水鏡が幻想的、 ただし営業時間が短縮されるため要事前確認
★★★☆☆
見どころ TOP 3
1.水堀に映る四隅の円塔群
幅広い人工堀に四隅の円塔と大手門塔が完璧に対称形で映り込む姿は、英国を代表する絵葉書の定番。築城当時から景観演出として計画された水と石の調和は、中世末期の見せる城の到達点である。
東側湖畔の遊歩道から朝霧時に堀越し正対で撮ると逆さ城が映る
2.天守なき内庭式の縄張り
中央に天守を持たず、四辺の外壁内側に大広間・礼拝堂・厨房・貴賓室を環状に配する内庭式構成は、生活空間の快適性を優先した中世末期の城の革新。攻城戦より荘園主の威信誇示が主眼だった設計思想を読み取れる。
大手門をくぐった内庭中央から四方の建物群を魚眼で広く
3.南西塔の登城と狭間胸壁
四隅の円塔のうち南西塔は内部階段で屋上まで登れ、狭間胸壁(バトルメント)越しに堀と周囲の田園風景を一望できる。塔屋から見下ろす内庭と外堀のスケール感は、中世騎士の視野を追体験させる隠れた名所。
塔屋上から大手門と北東塔を画面斜めに収めると堀の広がりが分かる
物語・伝説
こんな人におすすめ
現地で知るべき豆知識
- 1.東側湖畔の遊歩道は早朝の朝霧時に堀と城が完全な鏡像を映す絶景ポイントで、 開園前でも外周散策は無料で楽しめる、 英国の写真愛好家に古くから知られる隠れた撮影スポットである
- 2.夏季限定でカント・アンド・イースト・サセックス蒸気鉄道がボディアム駅まで運行され、 ロバーツブリッジから機関車で城に到着する英国らしい鉄道と城の組合せ旅程が人気を集める
- 3.ナショナル・トラスト会員(英国・海外問わず購入可)になると年間パスで入場無料となり、 シシングハースト城ガーデンや周辺の他物件も含めて全国で使い回せて費用対効果が高い
訪問情報
- アクセス
- ロンドンから鉄道で約2時間 (Charing Cross駅からRobertsbridge駅へ約1時間30分、 そこから路線バスまたはタクシーで約20分)。 自家用車ならM25経由で約2時間。
- 所要時間
- 外周と内部見学で2時間、 ティールーム休憩や鉄道組合せで半日が目安。
- 予算目安
- 入場料 大人£14前後・子供£7前後 (2024年時点、 ナショナル・トラスト会員無料)。 公式サイトで要確認。
周辺観光
車で30分圏にはエドワード朝の名建築サー・エドワード・ラチエンス設計のグレート・ディクスター・ハウスと、 英国式庭園の最高峰の一つシシングハースト城ガーデンが位置し、 英国カントリーハウス文化を一日で体感できる。 海沿いに足を伸ばせばヘイスティングズの戦い古戦場とバトル修道院遺構へも車で30分圏内である。
詳しく知る
時間のある方向けの詳細情報。
年表
- 1378年
ダリングリッジが荘園獲得
エドワード・ダリングリッジがボディアム荘園主の婦人と結婚し、 サセックス州議員として地歩を固める
- 1385年
リチャード2世の築城許可
百年戦争下のフランス侵攻危機を背景に、 10月20日付で築城許可状(license to crenellate)を獲得
- 1380年代後半
城本体の完成
四辺形プランの内庭式城郭が完成、 天守なく四隅に円塔・北側に大手門塔・南側に水門を備える
- 1483年
薔薇戦争で包囲
ランカスター家支持のルクナー家に対し、 ヨーク家リチャード3世が軍を派遣、 抵抗なく降伏したと伝わる
- 1485年
ルクナー家に返還
テューダー家ヘンリー7世の即位に伴い、 没収されていた城がルクナー家に返還される
- 1641年
英国内戦で売却
サネット伯爵2世ジョン・タフトンが王党派支持で議会派から科された罰金支払のため城を売却
- 17世紀中葉
意図的破却(slighting)
買い手によって屋根を落とされ床を抜かれ、 軍事利用不能なピクチャレスクな廃墟と化す
- 1829年
ジョン・フラーが購入
ロマン主義時代の景観美再評価を受け、 ジョン・フラーが廃墟となった城を購入して保存に乗り出す
- 1917年
カーゾン卿が購入
ジョージ・カーゾン卿(元インド総督)が城を購入し、 本格的な修復工事に着手
- 1925年
ナショナル・トラスト所有
カーゾン卿の遺贈によりナショナル・トラスト所有となり、 以後一般公開されて英国民の財産となる
歴史をもっと深く
ボディアム城の歴史は1378年、 エドワード・ダリングリッジが土地所有家系の婦人と結婚してボディアム荘園を獲得したことに始まる。 ダリングリッジは長子相続制で父の所領を継げない次子で、 1367年から1377年までフランスに渡って傭兵団フリー・カンパニーの一員として戦った。 特に悪名高きロバート・ノレス卿の隊で略奪収益を蓄えたとされ、 帰国後の1379年から1388年までサセックス州議員を務め、 1381年のワット・タイラー農民一揆鎮圧にも関与した県内有数の有力者となった。 1385年は百年戦争下でフランス艦隊1200隻がフランドルのスライス港に集結し、 南英沿岸が侵攻の脅威に晒される緊迫した年であった。 ダリングリッジはこの危機を機に10月20日付でリチャード2世から築城許可状(license to crenellate)を得て、 荘園屋敷を堡塁化する権利を獲得した。 完成した城は四辺形プランの内庭式で、 表向きは沿岸防衛だが浅い堀・低い外壁・内庭側の大窓など軍事的要件としては不徹底で、 富裕騎士の威信を見せる装置としての性格が強かった。 ダリングリッジ家は数世代にわたって城を継承したが、 家系が絶えた後に婚姻でルクナー家に渡った。 薔薇戦争期の1483年、 ヨーク家リチャード3世の即位に伴い、 ランカスター家を支持したサー・トーマス・ルクナーに対して軍が派遣され城は包囲を受けたが、 抵抗なく降伏したと伝わる。 1485年のテューダー家ヘンリー7世即位とともにルクナー家に返還され、 少なくとも16世紀まで所領であった。 1641年に始まる英国内戦の時点では、 城はサネット伯爵2世ジョン・タフトンの所有となり、 王党派支持で議会派から科された罰金支払のため売却された。 買い手は城を意図的に破却(slighting)し、 屋根を落とし内部の床を抜いてピクチャレスクな廃墟に変えた。 19世紀のロマン主義時代に風景画の画題として再評価され、 1829年にジョン・フラーが購入、 その後ジョージ・キュービット(アシュコム男爵1世)、 ジョージ・カーゾン卿(初代カーゾン・オブ・ケドルストン侯爵)へと所有が移るなかで段階的な修復が施された。 1925年、 カーゾン卿の遺贈によりナショナル・トラスト所有となり、 一般公開されて現在に至る。
文化的背景と意義
ボディアム城は、 中世末期の英国における「見せる城」の最良の現存例として、 城郭研究と中世社会史の双方で重要な位置を占める。 築城許可状の現物に「フランス侵攻に備える」と記される一方で、 軍事的要件としては不徹底な縄張り(浅く広い人工堀、 内向きの内庭、 低い外壁)が、 富を蓄えた騎士の社会的上昇を視覚化する装置としての城の機能を雄弁に語る。 19世紀のロマン主義以降、 城が廃墟として風景画の主役となり、 ターナーら風景画家の画題として絵画化された経緯は、 英国における「ピクチャレスク美学」の典型例として美術史でも研究される。 20世紀にナショナル・トラストの保護対象となる過程は、 英国における民間文化財保護運動の縮図でもあり、 国家ではなく市民組織が文化財を共有財産として運営する独自モデルを実演する場となった。 Grade I指定建造物および指定古代記念物の二重指定を受け、 教育・観光・撮影の多面的な公共資産として年間数十万人の来訪者を迎える。
建築的詳細
ボディアム城は四辺形プランの典型的な内庭式城郭で、 外辺は南北約45メートル・東西約50メートル、 外周は方形の人工堀(幅約30メートル)に取り囲まれる。 北側に大手門塔、 南側に水門と裏口塔を備え、 四隅には円塔が立ち上がる。 外壁全周には狭間胸壁(バトルメント)と弓矢狭間が設けられ、 一見すると正統な軍事城郭の外観を持つ。 しかし軍事的要件としては不十分な点が多く、 堀は浅く外壁は中程度の高さで、 内庭側には大きな窓を多く配する設計は、 攻城戦への抵抗より生活空間の快適性を優先したことを示す。 内庭の周囲には大広間、 礼拝堂、 厨房、 騎士の居室、 客人用の貴賓室が環状に並び、 中央に天守を持たない近世城館に近い構成となっている。 細部装飾には Perpendicular Gothic 様式の特徴が大広間や礼拝堂窓に見られ、 近接する人工湖と一体で計画された景観は、 後の英国カントリーハウスの遠景設計の先駆ともされる。